そこから二日間の休暇は、あっけないほど静かに始まった。
退院の翌日、桃花は自宅で朝の光を浴びながら、ぼんやりとソファに身を沈めていた。部屋にはいつも通りの空気が流れていて、電子レンジのタイマーが淡々と音を鳴らし、窓の外では近所の子どもたちの笑い声が遠くに響いていた。
けれど、そんな日常の音すら、どこか遠くに感じられた。
飯田編集長からは「二日は絶対休め」と、強めの口調で念を押されていた。出勤しても追い返す、と先輩からも伝えられた。
つまり、「何もするな」ということだった。
何もしないなんて、どうやって過ごせばいいのか。 落ち着かなくて、でも身体を動かすわけにもいかず、桃花はふと思い出す。
(そういえば、あの乙女ゲーム、積んだままだったっけ)
年始に買って、ちょっとだけプレイして、それから仕事に追われて放置していた恋愛アドベンチャーゲーム。何も考えずに没頭するには、ちょうどいい題材かもしれない。そう思って、ゲーム機を手に取り、電源を入れる。
画面に映るのは、まばゆいほど整った顔立ちの王子様。高貴で優雅で、甘い声で「ようこそ、僕の花嫁」と囁いてくる。その昔、何度このセリフに胸をときめかせただろう。プレイヤーを迎えるために完璧に調整された台詞回しと演出。光の加減まで計算されたその表情。
けれど。
(……あれ?)
胸が、何も反応しない。
驚いた。何度プレイしても、同じだった。王子様が「君の手を握ってもいいかい?」と囁いてきても、「君と出会うために生まれてきたんだ」と言ってきても、そのどれもが、どこか上滑りする。画面の向こうの彼らは確かに美しい。演出も丁寧だし、シナリオも王道で文句はない。なのに、心が動かない。
指が、進行ボタンの上で止まる。
そして、その沈黙の中で、ふと浮かんでくるのは、あのとき、白い光をまとったアルの姿だった。
(アルの方が王子様みたいだった)
ジャケットの裾を揺らしながら振り返る姿。肌に浮かぶ光の鱗。見つめ返してくるまなざし。そのすべてが、あまりにも鮮烈すぎて、画面の中の王子たちが霞んでしまう。
桃花は、思わずゲーム機をソファの脇にそっと置いた。胸の奥で、静かに何かがざわめいていた。
(どうして……? 二次元と三次元の違いくらい、わかっているはずだったのに)
ほんの数日前までは、確かにこういう物語に惹かれていたはずだった。夢みたいな言葉に、胸をきゅっと締め付けられて、それだけで元気が出たこともあったのに。
今は……代わりに浮かぶのは、撮影の時に見せたアルの「素の瞳」だった。誰にも見せない表情を、自分だけに向けてくれたあの一瞬。
「……あんなの、ずるい」
ぽつりと、思わず口からこぼれた。
ずるい。だって彼は現実の人で、しかも一筋縄ではいかない存在で。きっと秘密も過去も、まだ言えないこともたくさんある。だからこそ、ゲームの王子様のほうが、よっぽど簡単で、わかりやすくて、扱いやすいはずなのに。
それなのに、どうして、彼だけがこんなにも心に残ってしまうのか。
ソファに座ったまま、桃花は膝を抱えた。
どんなゲームの王子様よりも、彼の笑顔を思い出すほうが、ずっと胸が熱くなる。
静かな部屋の中で、桃花はひとり、自分の胸の音を確かめるようにそっと目を閉じた。
(……私、どうしちゃったんだろう)
こんなにも変わってしまうのは二度目だ。そんなこと、思いたくなかったのに。
部屋の中に流れていた沈黙を破るように、インターホンの電子音が、けたたましくもどこか人懐っこく響いた。
桃花は反射的に顔を上げる。玄関の方を見つめたまま、しばらくその音の意味を考えるように目を瞬いた。
「……え?」
こんな時間に来客の予定はなかった。ネット注文もしていないし、回覧板が来るにはまだ早い。けれど、再び「ピンポーン」と鳴った音に、迷う間もなく桃花は立ち上がる。
扉のスコープ越しに確認しようとしたその瞬間、外から聞こえてきた。
「桃花、起きてる?」
聞き覚えのある声。少しハスキーで、勢いがあって、そしてどこか心配を含んでいるような。
桃花は思わず苦笑してしまった。
チェーンを外し、扉を開けると、そこに立っていたのは案の定、須田綾乃だった。
「はい、どうも。元気してた?」
「……綾乃?」
「いや、元気そうで何より。まだちょっと顔色悪いけど。とりあえず、水分取って、体冷やさないようにして、ちゃんと横になってた?」
そうまくし立てながら、彼女は手にいくつかのコンビニ袋を抱えていた。中にはカットフルーツや小さなゼリー、パウチの飲み物、プリン、そして桃花の好きな限定パッケージのチョコまで入っていた。
「え、ちょっと、こんなに……」
「病み上がりに必要なもん全部揃えてきたの! もう……あんた一人にしてたら、またいきなり倒れそうで怖くてさ」
綾乃は言いながら、靴を脱ぎ、慣れた様子でリビングへと入っていく。もはや「お邪魔します」という言葉すら省略されているのが、なんとも綾乃らしかった。
その後ろ姿を見つめながら、桃花は扉を閉めた。気がつけば、胸の奥がほんの少しだけ軽くなっていた。
「……ありがと。来てくれて」
「ま、当然でしょ? 何年付き合ってると思ってるの。あのアルとかいう超然イケメンに任せっきりで倒れられたら、私の立つ瀬がないんですけど!」
「立つ瀬って……」
「あるよ、むしろアンタにはあたししかいないって自覚を持ちなさいよね?」
そう言いながら、綾乃は冷蔵庫に飲み物をしまい、テーブルの上にゼリーと小さなスプーンを並べる。病人用とは思えない手際のよさだった。
桃花はソファに腰を下ろし、綾乃が準備を終えるのを見守っていた。なんでもないやりとりのはずなのに、なんだか久しぶりの気がした。
「……ねえ、綾乃」
「ん?」
「私……ちょっと、変なんだと思う」
その言葉に、綾乃の手が止まった。真剣な眼差しで、桃花の顔を見る。
「乙女ゲーム、してみたの。久々に。……でも、全然、ドキドキしなかった」
「ほう?」
「昔はね、王子様の台詞に胸がギュッてなってたのに。今は、なんか……すっごく、うわべに感じちゃって」
そう言って、桃花は指先でスプーンを撫でた。
「代わりに……アルのことばっか、思い出すの。あの撮影のときの彼とか、病室でそばにいてくれたときとか……」
その声は、消えてしまいそうなほど小さかった。