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第103話 覚悟の話

 綾乃はしばらく黙っていた。けれど、すぐにソファの隣に腰を下ろし、そっと桃花の肩をポンと叩いた。


「当たり前じゃん。だって、アルって……ゲームの中の王子様よりずっと本物なんでしょ?」

「……本物」

「そ。アンタが今まで撮ってきた理想の王子様像なんかより、ずっとリアルで、ずっと綺麗で、……しかも、あの人はアンタのこと、本気で見てるし」


 その言葉に、桃花は息をのんだ。

 アルが自分を見ていた。レンズ越しでも、病室でも、彼はいつだってまっすぐに自分を見てくれていた。それは、自分がカメラを構えて見ていた以上に、深く、確かに。


「変なんかじゃないよ。むしろ、ちゃんと恋してるだけでしょ」


 綾乃の言葉は優しく、あたたかかった。

 桃花は、ふと、少しだけうつむいた。けれどその唇には、ようやく柔らかな笑みが戻っていた。


「なんか、それは……うん、そうなのかも。ありがと、綾乃」

「はいはい。じゃあ、今日は恋バナ禁止ね。あんた、たぶんまた寝不足になって倒れるわ」

「うっ……それは……」


 確かに無理をしていた自覚はある。そのせいでこうして入院して、休みになったのだけれど、後悔なんて微塵もしていない。

 それくらい、自分自身の存在、その全身全霊をかけて、あの写真を撮ったのだ。だから後悔なんてしない。


「まずは体力回復。それから、ちゃんと……向き合いなさい。相手がゲームの王子じゃなく、本物の王子様なんだったら、なおさらね」


 綾乃の横顔はどこか誇らしげだった。

 何も知らないはずなのに、誰よりも先に祝福しているように。

 その晩、綾乃が返った部屋の中で桃花は久しぶりにゲーム機をしまい込み、代わりに、自分が撮った写真をそっと広げていた。

 そこに輝くアルは、誰よりも綺麗で加工なんてしなくてもいいくらいに、綺麗な王子様だった。




 その日は、風が穏やかだった。

 都心の喧騒の中にあるはずのビル街が、どこかやさしく息をついているように感じられたのは、きっとアルの心がどこか軽やかだったせいかもしれない。

 編集部の入った雑居ビルのエレベーターを上がりきると、懐かしい紙とインクの匂いが、鼻をくすぐった。何度も来たことがある場所なのに、今日は少しだけ足取りが違っていた。自然と背筋が伸びる。扉を開けると、机に資料を積み上げたままパソコンに向かっていた中年の男性が、ふいに顔を上げた。

 飯田編集長だった。


「……おや」


 その声は、どこか驚きと、少しの懐かしさが混じったものだった。深く刻まれた眉間の皺がゆるみ、口元が穏やかに緩む。


「まさか、君からここへ顔を出すとは。珍しいね」

「こんにちは、飯田編集長。突然、お邪魔してしまってすみません」


 アルは、静かに一礼をしてから部屋に足を踏み入れた。飯田は椅子を軽く回し、手にしていた眼鏡を外して言った。


「いやいや。歓迎するよ。むしろこっちから会いたいと思ってたところだ。……望月くんの件でね」

「ええ。あのあと、きちんと医者の診察も受けさせました。今は、ゆっくり休ませています」

「そうか。……いや、本当に驚いたよ。あの子、ここまでのことするとは思ってなかった」


 飯田は机の上に置いてあった分厚いファイルを片手で叩いた。中には写真集の進捗データや、スケジュール、撮影メモの写しなどが挟まれている。

 ここで話をしていては目立つだろうと、応接室に案内される。そこでソファーに腰を降ろして、改めて話をする。


「たしかに、撮ると決めたら全力なのは昔からだけど。今回は……それ以上だった。あんなふうに撮ることに命を燃やしているところは初めてかもしれない」


 その言葉に、アルは静かに目を細める。

 桃花の無理を、責めているわけではない。むしろその想いを、編集長なりの言葉で讃えているのだとわかったから。


「……それだけ、必死だったんですよ。伝えたいものがあったんだと思います。僕の姿を、ただの綺麗な幻想としてではなく、ひとりの存在として、作品に閉じ込めるために」

「そうか」


 飯田は少しだけ唇の端を上げて、椅子の背にもたれた。


「君が、そんなふうに誰かのことを大事に思うなんてね。ずいぶん変わったようだ」


 その言葉に、アルは一瞬だけ沈黙した。けれど、すぐに――静かに、ゆっくりと、微笑んだ。


「ええ、僕自身、こんなふうになるとは思っていませんでした」

 その笑みは、まるで子どもが宝物を大事に懐に隠しているときのように、慎ましく、けれど確かな輝きを持っていた。

「でも……楽しみなんです。本当に」

「楽しみ?」

「桃花さんが仕上げる、写真集が。……彼女が僕をどう写したかを見るのが。どんな言葉よりも、彼女の目が語ってくれると思うから」


 飯田はしばらく黙っていた。その言葉をかみしめるように、机の上のマグカップを手に取って、冷めたコーヒーをひと口すする。そして、肩をすくめた。


「やれやれ。……そりゃあ、あの子が惚れ込むわけだ」

「え?」

「なに、こっちの話さ」


 編集長は照れ隠しのように言うと、手元の資料を一枚引き抜いた。それは、前回の撮影で桃花が提出した構成案の最新版だった。


「この仕事に、君がここまで本気で関わってくれてるのは、現場の皆にとっても大きなことだ。君がそこまで思ってくれるなら……たぶん、あの子も救われる」

「僕が、ですか?」

「そうだよ。……写真に写る側の『覚悟』っていうのは、写真を見ればわかるからね」


 飯田の声は、どこまでも飄々としているのに、妙に深くて重たかった。長く編集の現場に立ち続けてきた人間だからこそ見えている「表現者の覚悟」。それは写真家にもモデルにも、等しく求められるものだ。


「じゃあ、次は僕の番ですね」

「ん?」


 アルは、席を立ち、再び深く頭を下げた。


「桃花が、命を削ってまで写そうとしてくれたその姿に、僕もちゃんと応えたいんです。……全部を見せる覚悟を、決めるために」


 その声には、曇りがなかった。

 まるで、撮影という魔法の幕がもう一度上がることを、心の底から待ち望んでいるように、アルは嬉しそうに、目を細めて笑った。


「本当に、楽しみなんです」


 飯田はその言葉を、少しだけ驚いた顔で見つめていた。

 そして、ふっと小さく笑う。


「まったく、君は……本当に、いい男になったんだな」


 その呟きは、小さすぎてアルの耳には届かなかったかもしれない。

 だが、どこかアルも満足そうだった。


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