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第104話 作業の大詰め

 午後の光が窓辺を鈍く染めていた。

 静かに、じりじりと夜の気配を部屋に滑り込ませていた。

 桃花は編集部の一角、資料室にほど近い小さなブースにひとり座っていた。パソコンのディスプレイに向かい、指先がリズミカルにキーボードを叩いている。モニターには、アルの姿がいくつも並んでいた。構図違い、光の調整違い、表情の揺れ、視線の角度。

 どれもわずかな差しかないはずなのに、桃花にとってはすべてが違って見えた。


「……これは、違うな」


 ブツブツと独り言を漏らしながら、色調を微調整していく。鱗のきらめき、肌の艶、光を受けて微かに染まる唇の輪郭。

 それらをじっと見つめながら、アルの姿を思い出す。

 思い出すのは、撮影の最後。桃花が倒れる直前に見た、アルの視線だった。まっすぐで、まるで人間であることの境界線を曖昧にしてしまうような、静かな情熱に満ちた目。

 彼を、写しきらなければ。

 それが、彼女に課された使命のような気がしていた。


「……ん……」 


 肩が重たい。時計を見ると、もうとっくに定時を過ぎていた。スタッフの大半はすでに退勤していて、残っているのはごくわずかだった。

 そのとき、背後から声が飛んできた。


「望月くん!」


 思わずびくりと肩を跳ねさせて振り返ると、背後に飯田編集長の姿があった。腕を組み、呆れたように眉をひそめている。


「……何度言ったらわかるんだ。休めって言っただろう? まさか残業なんかしてる場合じゃないだろうね?」

「……す、すみません。でも、もう少しだけこのショットを仕上げておきたくて……」


 もう一枚、たった一枚。そう思っている間にだんだんと、写真を編集する枚数が増えていってしまうのである。


「だめだ」


 ばっさりだった。

 すぐさま資料もとられてしまう。そうなれば、仕事も進められなくなる。


「今、倒れられたら元も子もないんだよ。せっかくいいものが撮れたんだから、無理して質を落とすくらいなら、寝て体力戻してからやり直しなさい」

「……でも」

「でも、もへったくれもない。強制退社。はい、パソコン閉じて。お疲れさま」


 その口調は厳しいが、どこか優しさが滲んでいた。本当に心配してくれているのだと、桃花にもわかった。


「……わかりました」


 渋々といった様子で立ち上がり、上着を羽織る。ファイルをまとめ、そっとモニターを閉じると、編集部の照明がいっそう白く、冷たく感じられた。

 コートの襟元を直しながら、エレベーターに向かう。帰り支度をする中、ふと頭に浮かんだのは、綺麗な王子様のことだった。


(アル、どうしてるかな)


 今はきっと、彼のほうも準備を整えて、写真集の完成を待っているのだろう。次に会う時のために、また彼は新しい何かを見せてくれるのだろうか。

 そう考えているうちに、エントランスの自動ドアが音もなく開いた。

 冷たい風が、頬を撫でた。


「……」


 ビルの外、街灯の明かりに照らされた路地の端に、ひときわ目立つシルエットがあった。

 長身、整った顔立ち、黒のコートに身を包み、まるで舞台の幕が上がるのを待つ俳優のように、静かに佇んでいた。


「……アル……!?」


 思わず足を止めた。

 彼は、桃花を見つけるとゆっくりと微笑んだ。そして、一歩、また一歩と近づいてくる。


「こんばんは、桃花。……お仕事、お疲れさまでした」

「え、なんで……ここに……?」

「あなたが、少し残業するかもと思ったので。飯田編集長から、だいたいのスケジュールは聞いていました。きっと帰る頃には冷えていると思って、迎えに来ました」


 さらりと、事もなげに言う。

 まるで当然のように言ってのけるその言葉に、桃花は驚きが隠せなかった。


「……ほんとに、あなたって、何者なんですか?」


 呆れを通り越して、半ば笑いながら呟くと、アルはわずかに目を細めて、意味深に微笑んだ。


「それは、秘密です」


 その言い方があまりにも自然で、まるで童話の登場人物のようだった。王子様、魔法のような何かを纏った彼に、桃花は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。


「……で、まさかまたハイヤーとか言い出すんじゃないでしょうね?」

「実は、用意してあるのですが……」

「乗りませんよ!」


 桃花が思わず声を上げると、アルはふっと笑った。


「……ですよね。では、今日は電車で一緒に帰りましょうか」

「……本気……ですか?」

「もちろん」


 気がつけば、すでに隣に並んで歩いていた。彼の歩調は不思議なほど自然で、歩幅もぴたりと合っていた。それが彼が合わせてくれているのだと思っていた。電車の駅までは、少しだけ距離があった。けれど、その道のりすら、不思議と心地よかった。

 誰もが振り返るほど美しい人と、夜の街を並んで歩いている。それだけでも夢のようなのに、その人が、自分のことを気にかけて、ここまで迎えに来てくれるなんて。


(現実なんだよね、これ)


 そう思った瞬間、心の奥がじんわりと温かくなる。

 電車に乗り込んだ車内、ほどよく空いた座席にふたり並んで腰を下ろす。眼鏡をして、少し顔を俯かせている。それでも向かいの学生が、ちらちらとこちらを見ているのがわかる。だが、アルはまるで気にしていない様子だった。


「……不思議ですね」


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