午後の光が窓辺を鈍く染めていた。
静かに、じりじりと夜の気配を部屋に滑り込ませていた。
桃花は編集部の一角、資料室にほど近い小さなブースにひとり座っていた。パソコンのディスプレイに向かい、指先がリズミカルにキーボードを叩いている。モニターには、アルの姿がいくつも並んでいた。構図違い、光の調整違い、表情の揺れ、視線の角度。
どれもわずかな差しかないはずなのに、桃花にとってはすべてが違って見えた。
「……これは、違うな」
ブツブツと独り言を漏らしながら、色調を微調整していく。鱗のきらめき、肌の艶、光を受けて微かに染まる唇の輪郭。
それらをじっと見つめながら、アルの姿を思い出す。
思い出すのは、撮影の最後。桃花が倒れる直前に見た、アルの視線だった。まっすぐで、まるで人間であることの境界線を曖昧にしてしまうような、静かな情熱に満ちた目。
彼を、写しきらなければ。
それが、彼女に課された使命のような気がしていた。
「……ん……」
肩が重たい。時計を見ると、もうとっくに定時を過ぎていた。スタッフの大半はすでに退勤していて、残っているのはごくわずかだった。
そのとき、背後から声が飛んできた。
「望月くん!」
思わずびくりと肩を跳ねさせて振り返ると、背後に飯田編集長の姿があった。腕を組み、呆れたように眉をひそめている。
「……何度言ったらわかるんだ。休めって言っただろう? まさか残業なんかしてる場合じゃないだろうね?」
「……す、すみません。でも、もう少しだけこのショットを仕上げておきたくて……」
もう一枚、たった一枚。そう思っている間にだんだんと、写真を編集する枚数が増えていってしまうのである。
「だめだ」
ばっさりだった。
すぐさま資料もとられてしまう。そうなれば、仕事も進められなくなる。
「今、倒れられたら元も子もないんだよ。せっかくいいものが撮れたんだから、無理して質を落とすくらいなら、寝て体力戻してからやり直しなさい」
「……でも」
「でも、もへったくれもない。強制退社。はい、パソコン閉じて。お疲れさま」
その口調は厳しいが、どこか優しさが滲んでいた。本当に心配してくれているのだと、桃花にもわかった。
「……わかりました」
渋々といった様子で立ち上がり、上着を羽織る。ファイルをまとめ、そっとモニターを閉じると、編集部の照明がいっそう白く、冷たく感じられた。
コートの襟元を直しながら、エレベーターに向かう。帰り支度をする中、ふと頭に浮かんだのは、綺麗な王子様のことだった。
(アル、どうしてるかな)
今はきっと、彼のほうも準備を整えて、写真集の完成を待っているのだろう。次に会う時のために、また彼は新しい何かを見せてくれるのだろうか。
そう考えているうちに、エントランスの自動ドアが音もなく開いた。
冷たい風が、頬を撫でた。
「……」
ビルの外、街灯の明かりに照らされた路地の端に、ひときわ目立つシルエットがあった。
長身、整った顔立ち、黒のコートに身を包み、まるで舞台の幕が上がるのを待つ俳優のように、静かに佇んでいた。
「……アル……!?」
思わず足を止めた。
彼は、桃花を見つけるとゆっくりと微笑んだ。そして、一歩、また一歩と近づいてくる。
「こんばんは、桃花。……お仕事、お疲れさまでした」
「え、なんで……ここに……?」
「あなたが、少し残業するかもと思ったので。飯田編集長から、だいたいのスケジュールは聞いていました。きっと帰る頃には冷えていると思って、迎えに来ました」
さらりと、事もなげに言う。
まるで当然のように言ってのけるその言葉に、桃花は驚きが隠せなかった。
「……ほんとに、あなたって、何者なんですか?」
呆れを通り越して、半ば笑いながら呟くと、アルはわずかに目を細めて、意味深に微笑んだ。
「それは、秘密です」
その言い方があまりにも自然で、まるで童話の登場人物のようだった。王子様、魔法のような何かを纏った彼に、桃花は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「……で、まさかまたハイヤーとか言い出すんじゃないでしょうね?」
「実は、用意してあるのですが……」
「乗りませんよ!」
桃花が思わず声を上げると、アルはふっと笑った。
「……ですよね。では、今日は電車で一緒に帰りましょうか」
「……本気……ですか?」
「もちろん」
気がつけば、すでに隣に並んで歩いていた。彼の歩調は不思議なほど自然で、歩幅もぴたりと合っていた。それが彼が合わせてくれているのだと思っていた。電車の駅までは、少しだけ距離があった。けれど、その道のりすら、不思議と心地よかった。
誰もが振り返るほど美しい人と、夜の街を並んで歩いている。それだけでも夢のようなのに、その人が、自分のことを気にかけて、ここまで迎えに来てくれるなんて。
(現実なんだよね、これ)
そう思った瞬間、心の奥がじんわりと温かくなる。
電車に乗り込んだ車内、ほどよく空いた座席にふたり並んで腰を下ろす。眼鏡をして、少し顔を俯かせている。それでも向かいの学生が、ちらちらとこちらを見ているのがわかる。だが、アルはまるで気にしていない様子だった。
「……不思議ですね」