ふと、アルが小さく呟く。
「なにが?」
「こうして、人混みの中で、日常の一部に溶け込むことが……なんだか、夢の中みたいだなって思って」
その言葉に、桃花も目を伏せた。
「そう、なんですか?」
アルは少しだけ驚いた顔をした。けれど、すぐに頷いた。
「そうかもしれません。誰かの隣にいること。誰かと、同じ景色を見ること。そういうことを、ずっと……忘れていたんです」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
桃花は、そっと視線を横に向ける。車窓に映るふたりの影が、やわらかく揺れている。
「……それで……どうやって生きてきたんですか……」
声は、小さく、けれど確かだった。
「どうやって、でしょうね?」
アルは静かに頷いた。夜の電車の揺れが、ふたりの間に静かなリズムを刻んでいた。
今夜は、穏やかな、帰り道だった。
季節が、ほんの少しだけ先へと進んでいた。
夏の終わりが匂い立つ午後、桃花はひとり、編集部の作業ブースでモニターを見つめていた。画面に映るのは、ようやく完成を迎えた写真集の最終データ。タイトルはまだ仮のままだが、その一枚一枚が、彼女の魂を込めた結晶だった。
「完成、おめでとう」
「は、はい!!」
飯田編集長の声はいつになく柔らかかった。ふだんは優しくも厳しい言葉をぶつけてくる編集長が、無言でサムズアップをして、ぽんと肩を叩いて去っていった。その背中を見送りながら、桃花はようやく深く息を吐いた。
終わった。
あの眩しいほどの撮影の日々から、編集、補正、レイアウトの確認、構成の練り直し、そして再調整……何度となくそんな夜を超えながら、ようやく辿り着いた完成の瞬間だった。
(これで、本当にいいんだ)
自分の撮りたかったもの、自分が「写すべきだ」と信じた姿。それを、ひとつ残らず詰め込んだ写真集。
印刷所へ持ち込み、SNSでの告知が始まったのは、それから数日後だった。
最初の告知は桃花がやってみたらいい、と飯田編集長に言われた。
プロモーションのためにと、アルの姿を写した一枚を投稿した。白ホリの中、光を受けて淡く輝く鱗と、静かに何かを許したような表情。モノクロームの余白のなかに、彩度を持たない感情が潜む、そんな一枚。
「#新作写真集 #ComingSoon」そんな、ありきたりのハッシュタグとともに、SNSに投稿した。
「まあ……これだけって言ったらダメなんだろうけれど。でも、まだ書店とかの広告とかの前だし……」
桃花の中でもそれは、反応が見れたらいいなと思ったぐらいの軽い気持ちだったのだ。
だが、反応は、想像を遥かに超えていた。
「えっと……これは……」
たった数時間。
瞬く間にリツイートが増え、いいねが跳ね上がる。
「誰……この人……」 「これ、実在する人?CGじゃなくて?」 「この透明感、何……」 「まさにファンタジーとリアルの境界線……」 「写真集、絶対買います……!」
絶賛が、拡がっていった。
複数のニュースアカウントが取り上げ、国内だけでなく海外のファンアカウントにも共有されていく。特に、ビジュアルに敏感な層、V系ファンやコスプレイヤー、ポートレート写真家たちがこぞって言及し始めているようだった。特に数万人のフォロワーを持つようなインフルエンサーと呼ばれる人たちも、何人か拡散してくれていたようで、そのせいで余計に広がっているらしい。。
その反響に、桃花は嬉しさ以上の戸惑いを覚えていた。
(やっぱり、すごいんだ……彼は)
アルの美しさは、やはり特別だった。
だが、その一方で、胸の奥にじわりと染みる感情があった。
「この人、誰?」「名前は?」「どこの事務所?」「詳細ください!」
アルのことを知らない人たちが、彼を見つめて、騒いで、次々と「名前を与えよう」としていた。彼を「何者か」に仕立てようとする波が、静かに、でも確実に広がっていく。
(……わたしだけが、彼を知っている時間は、もう終わるんだ……かろうじて櫻木昴だとはわかっていないみたいだけど……)
それが、少しだけ寂しかった。まるで、大切な宝物を、世界中に公開してしまったような感覚だった。
嬉しい。でも、誰にも見せたくない。彼のこのきれいさは写真に移してこそ完成するのは分かっているというのにそれでもなおこのまま自分のファイルの中に閉じ込めておきたいとなんてそんなバカげた感情がある。
矛盾した感情が、胸の奥に、じくじくと残っていた。
そのときだった。
「あ、やっぱりここやんな」
不意に、扉がノックもなく開いて、あの声が飛び込んできた。
「えっと……お、お疲れ様です……?」
京志郎だった。
目立つ和装姿のまま、メイク道具の入ったキャリーケースを片手に、ずかずかと室内に入ってきた。
「今日な、前の仕事ちょうど上がったとこやってん。そろそろ終わったかなぁ思って。やから会いに来た」
唐突すぎて、桃花は目を瞬いた。
「え、どうして……」
アルといい、京志郎といい、一応連絡先は知っているはずなのに、そんなことは無視して普通に会いに来てしまうのだ。
「話があるからな」
京志郎の目が、まっすぐにこちらを射抜いていた。