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第106話 責任とってやって

 日が傾くのが、ほんの少しだけ早くなっていた。

 編集部での作業が一段落し、最終データの確認を済ませた。

(後、もう少し……作業したら……ちゃんと京志郎さんにも伝えてあるから、たぶん、大丈夫なはずだし……)


 やることなんて次から次へとやってくるのだ。そのためどうしたって時間が足りなくなってしまう。できるだけ待たせたくはないが、せめてこれだけはこなしておきたかったのだ。

 そんな桃花に飯田編集長がふと言った。


 「望月くん、今日は待たせている相手がいるんだろう?」

「え……?」

「わかるよ。ほら、もう終わらせようね」


 意味深なその言葉に、すぐに誰のことかは分かった。

 編集長はそれ以上多くを語らなかった。ただ、「天気もいいし、今日は定時で上がりなさい」と言って、デスクから彼女を解放してくれた。

 桃花は、夕方の光がやわらかく差し込む街路を歩いていた。行き先は、あのとき京志郎と待ち合わせた小さな公園。編集部からそれほど遠くない、緑が静かに残る、都心の隙間のような場所だった。

 到着した頃には、もう空が茜に染まりきっていた。ベンチのまわりには誰もいない。木々の隙間からのぞく空には、星がひとつ、またひとつと滲み始めていた。

 ベンチに座って、肩の力を抜く。風が、涼しい。しばらくして、聞き慣れた足音が砂利を踏んで近づいてきた。


「お、やっぱりおったわ」

「すみません。お待たせしてしまいましたか?」

「ええよ。まあ、こっちも適当に時間つぶしとったから」


 桃花が振り向くと、京志郎が片手にコンビニの紙袋を提げ、もう片方の手でおにぎりの包装を器用にむいていた。


「ほら、これももらったって?」


 そう言って、彼は桃花の隣にどかっと腰を下ろす。コンビニの袋の中から、一本サイダーをくれた。


「え……こんな、いいんですか?」

「ええって。こういうの、一緒に飲んでくれる人おらへんねん。右京と左京も……趣味悪いいうて飲んでくれへんし」

「あ、ありがとうございます」


 最新作のザクロサイダー。味は予想できないが、赤に近い透明なピンク色はなかなかおいしそうだった。


「なあ、桃花お姉さん」


 彼の声が、風に溶けるように落ちてきた。


「……はい」

「お姉さんは、あの男のこと……ちゃんと受け止めるつもり、あんのか?」

「……っ」


 その問いに、思わず息が詰まった。

 直球だった。でも、嘘じゃなく、誤魔化しはない。

 たぶん、京志郎にはバレてしまっている。桃花の感情も。そしてアルとどうなりたいか、それをひそかに考えてしまっていることにも。


「……どうして、それを?」

「わかるわ」


 缶を軽く開ける音が、しゃらりと響いた。


「……あいつ、いつの間にお姉さんのために動くようになってた」


 京志郎の横顔は、夕空に溶けるように影を落としていた。


「最初、俺はな……あいつのこと、あんまり信用してへんかった。だって、あんなええところで舞台降りたようなやっちゃ、またどっかでおらんくなるやろうなって思てた」


 唐突に口を開いたその声には、どこか寂しさと、諦めに似た熱があった。


「見た目も態度も完璧で、口も達者やし。でも、どこか生きてる感じがせんかった。誰にも期待せんし、誰からも期待されてへん、そんな目ぇしとった」


 桃花は何も言わずに、隣で缶を持ったまま、黙って聞いていた。


「でもな……あいつ、あの撮影のとき、ちゃんと変わったで。メイクのことも衣装のことも、全部自分で考えて、何より「桃花のために」って言うてた。あいつにしては、相当なことや」


 京志郎はそこで一呼吸置いて、星の滲み始めた空を見上げた。


「だからこそ、や」


 その視線が、ふいに桃花の横顔に戻る。


「お姉さんがあいつのこと、ただ被写体で終わらせるつもりやったら……悪いけど、俺は今ここであいつから離れろって言うわ」


 その声は低く、冷たく響いた。けれど、その奥には、確かなあたたかさがあった。


「……京志郎さん」


 桃花の声もまた、震えていた。


「けどな」


 彼は、視線をまた空に戻した。


「もし、あいつを……今はアルやったか、あいつっていう男を、ちゃんと受け止めるって言うなら、……最後まで、責任取ってやってくれへんか」


 責任。

 その言葉が、公園の空気に深く落ちていった。


「それを……言いたくて?」

「当たり前やろ。それ以外何があんねん」


 言葉が、喉に詰まった。それでも、目の前に差し出された答えに、桃花はちゃんと向き合いたかった。

 静かに、胸に手を当てる。


 (もう、わたしは……)


 写真だけじゃない。被写体だけじゃない。彼の声も、目も、熱も、記憶の中で生きている。


「……はい」


 小さな声だった。けれど、確かな返事だった。京志郎はふっと息をついて、ゆっくりと立ち上がった。


「ほんま、厄介な男やで、あいつも。けど……桃花お姉さんだけはそれを向き合ってくれたんや。やから、まあ……期待しとくわ」


 そう言って、彼は軽く頭を下げ、歩き出した。遠ざかる足音とともに、空が一段と深く藍に染まっていく。

 桃花は、ベンチにひとり残されて、空を見上げた。星が、さっきよりもはっきりと瞬いていた。


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