翌朝、編集部のドアを開けた瞬間、桃花はほんの少しだけ空気の違いに気づいた。
(なんか、みんな忙しい……?)
なんだかみんなバタバタと落ち着きがなくて、どこか浮足立っているように見える。もちろん最近は桃花の方も写真集もあったし、それを手伝ってもらっていたから、もしかしたらその影響なのかもしれない。そう思っていた時だった。
「望月くん、ちょうどよかった。ちょっと来てくれないかな。少し、急ぎなんだ」
飯田編集長の声が、いつになく早口だった。
どことなく、何か焦っているような声だった。
「あ……はいっ」
桃花は慌てて荷物を置いて、編集長のデスクへと向かう。彼はすでに何枚かの書類を広げていて、その中央には分厚い書店からのFAXと、いくつかの印刷会社からの発注連絡が並んでいた。
「これを見てくれるかな」
手渡されたのは、写真集の初版出荷部数と、全国主要書店からの発注増加を示す一覧だった。桃花はその数字を、瞬きもせずに見つめた。
数千、どころか万の数字に達しようとしている。
「……これ……こんなに……?」
思わず、声が掠れた。
昨今ではネットで電子版も売られている。だから、紙の本でこんな数字を、しかも発売から数日で出してしまうのは、異例中の異例だ。しかも、それが有名な俳優として名をはせているのならばまだ理解できるが、少なくとも今のアルはそんな有名人ではない。
(櫻木昴って……アルがバレた……? でも、そんな動きはSNS上から見えてきているわけではなかったし)
桃花だって写真集のこともあるから、ずっとSNSはチェックしてきた。しかし、いくつかのアルの正体の考察はみてきたものの、そのどれも「櫻木昴」について言及しているものはなかった。だから現時点で、アルが櫻木昴であると思っている者はほぼいない、と考えてもいいだろう。
「初版が出荷から三日。予約でほぼ捌けて、書店からはすでに次回分の問い合わせが殺到している。……つまり、重版決定だ。印刷所も動いた。もう止まらないよ」
編集長の声は、どこか静かに、けれど確かに誇らしげだった。
「……重版……」
まるで、夢の中の言葉みたいだった。撮って、構成して、編集して、ようやく世に送り出したその写真集が、たった数日で重版されるなんて。
こんなことが本当にあるのか、と桃花は信じられない気持ちだった。
「おめでとう、望月くん。これは君の、そして……君とその周囲が作った力だよ」
その言葉に、桃花は震えた。手のひらの奥、心臓の鼓動がまるで別のものになったかのように跳ねていた。
「……ありがとうございます。でも、私だけの力じゃなくて……」
そう言いかけたのを、飯田編集長はうなずきで受け止める。
「分かってるさ。けど、最初にその作品に『意味』を与えたのは君なんだ」
「はい……」
桃花はそれを否定できなかった。
そのときだった。編集長が、ふと口元を引き締め、机の端に置いていた一枚の名刺を手に取った。
「……それと、もう一つ。いや、こっちの方がむしろ本題かもしれないな」
「え? それ、は……?」
名刺をひらりと差し出される。桃花が受け取ると、そこには知らない名前と、聞き覚えのある芸能事務所のロゴが印刷されていた。
「……この事務所って……!」
「そう。モデルと映像タレントを多く抱えているところだね。昨日、その代表が編集部までわざわざ連絡してくれたんだよ。『この作品を作った人にぜひ会いたい』って」
「……えっ、それって……アルのことでしょうか……?」
桃花は自分の顔色が思わず変わるのを感じていた。アルのことをどこかの事務所が欲しいと言ってくるのは当然のことだろう。ただ、彼が「櫻木昴」として帰ってくるのは阻止したいという気持ちは今も桃花の中で変わらない。
しかし、編集長は首を振る。わずかに、口角を上げて穏やかに言ってくる。
「違う。君だよ、望月くん。君に、仕事のオファーが来ているんだ」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
「……わ、たしに?」
「そう。映像関係や雑誌のアートチームに、と言われている。君の感性と、あの写真集の構成力を高く評価しているそうだ」
「…………え」
桃花には頭が追いつかなかった。まさか、自分がスカウトされる側になるなんて。今まで、被写体を探し、光を探し、構図を追ってきた自分が、まさか誰かに見つけられるとは。
「もちろん、正式に契約するとか、そういう話はまだ先だ。だけど、君に直接会いたいと言っている。……ここにいると思って、と編集部を通して名指しで問い合わせがあった。滅多にないことだよ」
編集長の声が、どこか優しくなる。
「もちろん、うちで仕事をしてもらいたいのは、山々だけれどね。どうするかは君次第だ。断ってもいい。でも、これは、君が積み上げてきた『結果』のひとつだよ。胸を張っていい」
名刺を持つ手が、かすかに震えていた。これまでどれだけシャッターを切ってきたか。それでも、これほど自分自身が「見つけられた」と思えた瞬間はなかった。
「……考えてみます」
声が少し震えた。けれど、それでも確かに、前に進もうとしている自分がそこにいた。
「そうか。それでいい。急がなくてもいい。……ただ、選べる未来があるってことは、悪いことじゃない。大事なのは、君がどこまで行きたいかだよ」
編集長は、そう言って席に戻っていった。桃花はしばらくの間、その名刺を見つめ続けた。