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第108話 お祝いの約束

 その日の午後、名刺を手にしたまま編集部の屋上に出た桃花は、携帯を握ったまましばらく動けずにいた。名刺に書かれた事務所の名、そして「あなたの感性を求めています」と綴られた短い手紙。それは紛れもない、スカウトだった。


(こういうの、珍しい業界ではないんだけれど……でも、そんなことがあるなんて思わなかった)


 受け取った瞬間から、ずっと心がざわついていた。嬉しさとも戸惑いともつかない感情が、胸の奥でゆっくりと回っている。編集長の言葉も優しかった。きっと誰よりも彼女の努力を見てくれていたからこそ、ああして背中を押してくれたのだろう。

 だけど、それでも。


(……アルに、話さなきゃ)


 自然と、そう思った。嬉しい報告を最初に届けたいと思ったのは、ほかでもない彼だった。誰よりも近くで、桃花の「本気」と「限界」を見つめてくれていた人だから。

 指が、躊躇いながらも連絡先をタップする。通話ではなく、メッセージだった。何をしているのかわからなかったからだ。


《少しだけ、話せる時間ありますか?》


 数分も経たないうちに、すぐに返事が来た。多分仕事中だと思うのだが、そこはもう気にしない。


《もちろん。今、君のいるビルの近くにいます》


 あまりにも自然で、何の迷いもない言葉に、桃花は思わず小さく息をついた。


《では、その、昼休みにいつもの公園で》


 返信を送ると、彼女は名刺を胸ポケットにそっとしまった。風が、ビルの隙間を吹き抜けていく気がした。




 ビルの近くの公園の一角。そこは編集部の中でも人の通りが少ない、隠れたようなスペースだった。花壇の縁に腰を下ろしていると、軽い足音が近づいてきた。


「……こんにちは」


 その声に顔を上げると、そこにはやはり、アルが立っていた。コートを羽織り、少し色の濃い茶色の髪をラフにまとめたその姿は、変わらず整っていた。眼鏡をかけていても、その顔立ちが綺麗なのがよくわかる。

けれど、どこか以前よりも柔らかい光を纏っているようにも見えた。


「こんにちは、アル」


 自然とそう呼んでいた。彼もまた、穏やかな微笑で応える。


「どうしましたか? 桃花から連絡をもらえるなんて。まだ仕事中でしょう、珍しいですね」

「……うん。ちょっと、話したいことがあったんです」


 ポケットの中にある名刺の感触が、指先を通じてじんわりと伝わってくる。

 桃花は、少しだけ言葉を探してから、ゆっくりと話し始めた。


「今日……スカウトを受けました」


 その言葉に、アルの瞳がわずかに揺れた。けれど、それは驚きというより、どこか納得したような反応だった。


「スカウト……桃花が?」

「はい。ある事務所の人が、編集部に連絡してきて……一度話がしてみたいとか」


 ぽつぽつと語る桃花の声は、どこか心許なげだった。


「それで、桃花はどうするつもりなんですか?」

「……いえ、まだ、何も決めていないんですけれど……それでも、最初に伝えたかった。アルには、ちゃんと。あなたの、おかげですから」


 すると、アルは一歩だけ近づいて、目線を合わせてきた。


「……嬉しいです」


 その言葉に、桃花はふとまばたきをした。


「え?」

「桃花が、評価されたことが。桃花が誰かに見つけられたことが。……それほどまでに、桃花の目と感性が本物だったという証でしょう?」


 アルはまっすぐに告げてくる。


「僕は、君に見てもらえて、幸運だったと思っている。だから、その才能がもっと広がるなら、それを止める理由なんて、ひとつもありません」


 その瞳に、嘘はなかった。


「……でも、まだ何も決まっていませんから」


 桃花の言葉は、ほんの少しだけ、冗談めいていた。けれどアルは、その言葉にも微笑で返す。


「ええ、そうですね。だからこそ」


 そこで、言葉を切る。わずかに視線を伏せてから、そっと差し出してくるように、こう言った。


「少しだけ、時間をもらえますか? 今日は、君とちゃんと話がしたい。……いや、できれば、食事に行けたらと思って」


 ふっと、桃花は力が抜けたように笑った。


「……食事、ですか?」

「はい。桃花が元気そうで、そして何かを乗り越えた顔をしているので、そのお祝いに。それに久しぶりに、撮るでも撮られるでもなくて、ただ桃花と話がしたいと思ったんです」


 言葉の一つひとつが、真っ直ぐで、温かかった。

 桃花は、自然と頷いていた。


「……いいですよ」


 その瞬間、アルはわずかに目を細めて笑った。


「ありがとうございます。それでは、今夜僕が予約をしているお店へ。歩いて行ける距離です」

「……まさか、またどこかすごいところなんじゃ……?」

「どうでしょう。それは行ってからのお楽しみということで」


 いたずらっぽく笑う彼に、桃花も思わず笑ってしまった。


「わかりました。楽しみにしています」


 きっと今までなら、もっと動揺してしまっていた。

 今だって心臓がどきどきしているのは感じている。しかし、どこかで期待していることは桃花もわかっている。

(それは、きっとアルとだから)

 そう思って、なんだか嬉しかった。


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