その日の午後、名刺を手にしたまま編集部の屋上に出た桃花は、携帯を握ったまましばらく動けずにいた。名刺に書かれた事務所の名、そして「あなたの感性を求めています」と綴られた短い手紙。それは紛れもない、スカウトだった。
(こういうの、珍しい業界ではないんだけれど……でも、そんなことがあるなんて思わなかった)
受け取った瞬間から、ずっと心がざわついていた。嬉しさとも戸惑いともつかない感情が、胸の奥でゆっくりと回っている。編集長の言葉も優しかった。きっと誰よりも彼女の努力を見てくれていたからこそ、ああして背中を押してくれたのだろう。
だけど、それでも。
(……アルに、話さなきゃ)
自然と、そう思った。嬉しい報告を最初に届けたいと思ったのは、ほかでもない彼だった。誰よりも近くで、桃花の「本気」と「限界」を見つめてくれていた人だから。
指が、躊躇いながらも連絡先をタップする。通話ではなく、メッセージだった。何をしているのかわからなかったからだ。
《少しだけ、話せる時間ありますか?》
数分も経たないうちに、すぐに返事が来た。多分仕事中だと思うのだが、そこはもう気にしない。
《もちろん。今、君のいるビルの近くにいます》
あまりにも自然で、何の迷いもない言葉に、桃花は思わず小さく息をついた。
《では、その、昼休みにいつもの公園で》
返信を送ると、彼女は名刺を胸ポケットにそっとしまった。風が、ビルの隙間を吹き抜けていく気がした。
ビルの近くの公園の一角。そこは編集部の中でも人の通りが少ない、隠れたようなスペースだった。花壇の縁に腰を下ろしていると、軽い足音が近づいてきた。
「……こんにちは」
その声に顔を上げると、そこにはやはり、アルが立っていた。コートを羽織り、少し色の濃い茶色の髪をラフにまとめたその姿は、変わらず整っていた。眼鏡をかけていても、その顔立ちが綺麗なのがよくわかる。
けれど、どこか以前よりも柔らかい光を纏っているようにも見えた。
「こんにちは、アル」
自然とそう呼んでいた。彼もまた、穏やかな微笑で応える。
「どうしましたか? 桃花から連絡をもらえるなんて。まだ仕事中でしょう、珍しいですね」
「……うん。ちょっと、話したいことがあったんです」
ポケットの中にある名刺の感触が、指先を通じてじんわりと伝わってくる。
桃花は、少しだけ言葉を探してから、ゆっくりと話し始めた。
「今日……スカウトを受けました」
その言葉に、アルの瞳がわずかに揺れた。けれど、それは驚きというより、どこか納得したような反応だった。
「スカウト……桃花が?」
「はい。ある事務所の人が、編集部に連絡してきて……一度話がしてみたいとか」
ぽつぽつと語る桃花の声は、どこか心許なげだった。
「それで、桃花はどうするつもりなんですか?」
「……いえ、まだ、何も決めていないんですけれど……それでも、最初に伝えたかった。アルには、ちゃんと。あなたの、おかげですから」
すると、アルは一歩だけ近づいて、目線を合わせてきた。
「……嬉しいです」
その言葉に、桃花はふとまばたきをした。
「え?」
「桃花が、評価されたことが。桃花が誰かに見つけられたことが。……それほどまでに、桃花の目と感性が本物だったという証でしょう?」
アルはまっすぐに告げてくる。
「僕は、君に見てもらえて、幸運だったと思っている。だから、その才能がもっと広がるなら、それを止める理由なんて、ひとつもありません」
その瞳に、嘘はなかった。
「……でも、まだ何も決まっていませんから」
桃花の言葉は、ほんの少しだけ、冗談めいていた。けれどアルは、その言葉にも微笑で返す。
「ええ、そうですね。だからこそ」
そこで、言葉を切る。わずかに視線を伏せてから、そっと差し出してくるように、こう言った。
「少しだけ、時間をもらえますか? 今日は、君とちゃんと話がしたい。……いや、できれば、食事に行けたらと思って」
ふっと、桃花は力が抜けたように笑った。
「……食事、ですか?」
「はい。桃花が元気そうで、そして何かを乗り越えた顔をしているので、そのお祝いに。それに久しぶりに、撮るでも撮られるでもなくて、ただ桃花と話がしたいと思ったんです」
言葉の一つひとつが、真っ直ぐで、温かかった。
桃花は、自然と頷いていた。
「……いいですよ」
その瞬間、アルはわずかに目を細めて笑った。
「ありがとうございます。それでは、今夜僕が予約をしているお店へ。歩いて行ける距離です」
「……まさか、またどこかすごいところなんじゃ……?」
「どうでしょう。それは行ってからのお楽しみということで」
いたずらっぽく笑う彼に、桃花も思わず笑ってしまった。
「わかりました。楽しみにしています」
きっと今までなら、もっと動揺してしまっていた。
今だって心臓がどきどきしているのは感じている。しかし、どこかで期待していることは桃花もわかっている。
(それは、きっとアルとだから)
そう思って、なんだか嬉しかった。