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第109話 そうやって彼女は笑う

それから時間が過ぎていく。編集部の空気は、どこか緩やかに和らいでいた。

 最近はひたすら数字や進捗に追われていた数日間に比べれば、今日はどこか穏やかだった。けれど、その穏やかさの中で、桃花は妙に落ち着かずにいた。

 そわそわと、指先が無意識にペンを転がす。ディスプレイの光を見つめているふりをしながら、実際には時計の針を数秒ごとに確認してしまっていた。


(……まだ早い、まだ……でも……どうしようかな)


 わかっている。待ち合わせ時間まではまだ時間がある。少なくとも、あと十五分はここにいてもいい。でも、それ以上いたら、鏡を見る余裕がなくなる。ふと立ち上がり、デスクの脇に置いてあったポーチを手に取ると、誰に声をかけるでもなく、そっとトイレへ向かった。なるべく自然に、けれど自然すぎると怪しまれるかもしれないと考えている自分に、少しだけ苦笑してしまう。

 トイレの鏡の前に立つと、白い蛍光灯の下、自分の顔がぼんやりと浮かんでいた。


「……変じゃない、かな」


 小さくつぶやきながら、髪を梳かす。もともと整えてきたつもりだったが、気がつけば何度も手ぐしを入れ、髪の流れを直していた。リップは塗り直さない。派手に見えるのは避けたい。ただ、少しだけ色を重ねるくらいでいいはずだ。そもそもアルがかっこよすぎるので、どうしたところで桃花が釣り合わないことはわかっている。


「……よし」


 自分にそう言い聞かせるようにしてから、ポーチを閉じる。

 もう一度鏡を見て、深呼吸をしてから、扉を開ける。

 廊下を歩いて、何食わぬ顔でデスクへ戻ろうとした、その瞬間だった。


「望月くん」


 背後から、静かな声がした。


「……あっ、はい!」


 驚いて振り返ると、そこには飯田編集長がいた。多分重版のこともあって、いつもよりも忙しいのだろう。分厚いファイルを抱え、けれどその表情には、どこか柔らかな笑みがあった。


「今日は……なんだか、楽しそうだね」

「……え?」


 桃花は一瞬、言葉に詰まった。


「そ、そう、ですか?」

「ああ。最近は仕事も多かったからね」


 それは決して皮肉でもからかいでもなく、本当にただの「観察」だった。だからこそ、桃花は余計に戸惑った。


(……バレてる?)

 頭の奥がじん、と熱くなる。

 それを悟られまいとして、慌てて視線を逸らす。

 けれど、編集長はにこやかに言葉を重ねた。


「楽しんでおいで。こういう時間も、きっと大事だよ」

「……!」


 胸の奥が、きゅっとなった。

 それが「何を意味するのか」、言葉にはされていない。けれど、何かを見透かされたような温度が、そのまま桃花の背を押していた。


「ありがとうございます。……お先に失礼します」

 いつになく丁寧に頭を下げ、桃花は編集部をあとにした。




 街は、薄桃色の光を残しながら、ゆっくりと夜の帳を降ろし始めていた。

 空気には夏の終わりの気配があって、熱気は残るのに風だけがどこか乾いている。そんな夕暮れの雑踏の中、桃花は足早に歩いていた。

 少しだけ早く着きすぎてしまうかもしれない。


「でも……待たせるよりも、いいよね」


 待ち合わせ場所へ向かう道の途中、駅近くの書店の前を通りかかったときだった。

 ふと、視界の隅にそれが入った。入口脇に設置されたプロモーションスペース。

 そこに、アルの写真集のポスターが貼られていた。

 ここまで

 白ホリの中、光を纏ったような彼の姿。あのとき、桃花が息を止めるようにして切り取った一瞬が、大きく引き延ばされ、ガラスの向こうに飾られている。

 そして、その前に、ひとりの女の子が立っていた。

 年齢は、桃花よりもずっと若く見えた。大学生か、社会人としても一年目くらいだろうか。髪は巻かれ、ピンクがかったカラーに染められている。アイメイクは濃く、頬にはパウダーのあとがはっきり残るほど。リボンの付いたバッグを抱きしめるように持ったまま、彼女は、じっとポスターを見上げていた。

 目が、離せないというより、吸い込まれているような。

(そこまで、気になるんだ……)

 なんだか、そこまで気にしてくれるのは嬉しくなってしまう。思わず笑顔を零して、そのまま通り過ぎようとした時だった。

 ポスターの横を通り過ぎようとした、その瞬間だった。

 ふいに、視界の端で揺れたピンク色の髪が、ひらりとこちらを向いた。


「ねえ」


 小さく、けれど妙に耳に残る声だった。

 呼び止められた、という確信と同時に、桃花は足を止め、ゆっくりと振り返った。

 さっきの女の子が、いつの間にかこちらを向いて立っていた。瞳は大きく、けれど何かを貼りつけたような笑顔。整っている顔立ちが、むしろその不自然さを際立たせていた。


「この人ぉ、カッコイイですよねぇ? ね、お姉さんも、そう思いません?」


 少女はポスターをちらりと見やりながら、くすくすと笑った。甘えるような口調とは裏腹に、その笑みにはどこか冷たい光があった。

(なんだろう。何か、まずい気がする)

 桃花は、胸の内にじわりと広がる妙な緊張を感じた。


「……そう、ですね」


 言葉を選ぶ余裕もなく、あいまいに返す。自分の作品を見て誰かが「カッコイイ」と言ってくれることは嬉しいはずなのに、なぜか心の奥がざわついた。

 少女の視線がまたポスターに向けられる。


「ずっと、誰かに見られてる顔って、あるじゃないですか。誰かと一緒にいるときだけ見せる顔とか。……ああいうの、すごくいいなって思うんですよね」


 そう言いながら、少女はポスターのアルに向かって、小さく微笑んだ。

 その表情はまるで恋人でも見つめているかのようだった。桃花は、咄嗟に言葉が見つからなかった。


「でも、この写真……あたし、ちょっと悔しかったんです」


 少女はちらりと桃花に視線を向けた。


「どうして、この瞬間、あたしじゃなかったんだろうって」


 にっこりと笑いながら、そう呟くその口調は、まるで冗談のようでいて、まったく冗談には聞こえなかった。

 桃花は、ごく自然な動作に見せかけて一歩だけ身を引いた。体が本能的に距離を取っていた。


「……ふふ、ひどいなぁ……ねえ、これ、誰が撮ったのかなぁ……女の子? 恋人? ひどいなぁ……」


 少女はそう言って、ポスターに視線を戻す。まるで恋人の写真を飽きずに見つめるように。

 それ以上何も言わず、桃花は静かに背を向けた。背後でまた、くす、と笑う気配がした。

 名前も、何も聞いていない。

 でも、確かに刻まれていた。

 あの少女の存在が、この先ずっと引っかかるものになるということを。

 靴音を響かせながら通りを抜けた先で、桃花はようやく、深く息を吐いた。


「はあ……なんだったんだろう……さっきの」


 思わず桃花は自分が震えているのを感じてしまう。その時だった。

 ポケットの中、スマホの画面が通知で光っている。


「……」


 それが誰からのものかはわかっている。アルの名前を呼びたかった。だが、今はなんだか妙に恐ろしい気がした。


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