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第110話 息も忘れるほどに

 小さなレストランは、ビルの路地裏にひっそりと隠れるように建っていた。

 以前に来たことがある、

 すぐさま桃花は窓際の席に通され、すでに座っていたアルと視線が合った。


「……お待たせしました」


 実は先ほどの女の子がつけてきていないか確認しながらなので、遅くなった、とは桃花は言わなかった。アルに余計な心配をかけたくなかったのだ。


「ううん、僕も今来たところです」

 自然とそう答えたアルの笑顔に、桃花の緊張が少しだけほどけた。


(やっぱりすごく綺麗なんだよなあ)

 そう思えるくらい、輝くような笑顔だった。


「では、そろそろ準備をさせますね」


そう言うと同時に、すぐさま目にも鮮やかな前菜が並び、グラスの中の白ワインが照明に淡くきらめく。

 けれど、ナイフとフォークを握る手の力が抜けなかったのは、食事のせいではない。

 さっきの、あの少女のことが、どこかに引っかかっていた。

(ただのファン……ではないような……)

 ポスターを見上げていた、あの目。言葉の端々に含まれていた、妙な執着。

(あれだけの熱量があれば……櫻木昴のことだって見抜くかも……)

 それが恐ろしくてたまらない。


「……桃花?」


 不意に、呼びかけられる。はっとして顔を上げると、アルがこちらを見ていた。


「……あ、ごめんなさい。ぼんやりしてたかも」

「いえ、大丈夫です。ただ……何か、気になることでもありましたか?」


 問いかけは優しかった。けれど、鋭い。

 やっぱり、気づかれていた。


「……ううん、大丈夫。ほんとに。ただ……ちょっと、道すがら妙なことがあって……でももう平気です」

 笑顔を作ってそう答える。嘘ではなかった。もう、あの少女と距離は取った。今は目の前の、この人と食事をしている。それがすべてのはずだった。

 だが、アルはその笑顔を見つめたまま、ほんの少し、視線を緩めた。


「無理は、しないでください」


 静かに、けれど確かな声で、そう言った。

 桃花は言葉を失った。まるで、心の奥を見透かされているようだった。

 アルは手にしていたナイフとフォークを静かに皿の縁に置く。そして、まっすぐ桃花の瞳を見つめながら、少しだけ身を乗り出した。


「実は、今日、伝えたいことがもう一つあって」

「え……?」

「桃花にだけ、伝えたいこと」


 そこで一度言葉を切り、アルはふっと柔らかく笑った。


「僕をこれから、君にしか撮られないことにしました」


 まるで何でもないことのように、さらりと。

 でも、その言葉は、桃花の胸の奥に、まっすぐに届いた。


「……え?」


 思わず、聞き返してしまった。

 けれど、アルはその反応に少しも戸惑うことなく、微笑を深めて続けた。


「もちろん、いろんな誘いがあるのは知ってます。でも、僕が誰に見られたいか、誰に切り撮ってほしいか。それは、僕が選ぶべきことだと思ったんです」


 言葉の一つひとつに、迷いはなかった。

 それは契約ではなく、約束でもなかった。もっと、静かで、強くて、決意に似た「意志」のようなものだった。


「……どうして……私なんですか?」


 震える声で、桃花は問うた。

 アルは、少しだけ首を傾げた。

「君の写真には、嘘がないからです。どんなに光を演出しても、君が切るシャッターの瞬間には、心が映っている。……だから、僕はその目で見てもらいたい。ずっと、そう思っていました」

 桃花は息をのんだ。胸が、強く脈打っていた。

 食事の音も、周囲の話し声も、どこか遠くなっていく。

 アルの瞳だけが、今はただ、桃花の世界を静かに満たしていた。

 その瞬間、自分がまた、何かを撮りたくなる気持ちに包まれていることに、桃花は気づいた。

 それは被写体としての「アル」ではなく、その「言葉」や「温度」や「空気」まで、全部をカメラの中に閉じ込めてしまいたくなる衝動だった。

 けれど、今だけは、シャッターを切るよりも、この瞬間を、心で焼きつけたいと思った。


「……ありがとう、アル」


 そのまま浮かれたまま食事をしていた。

 テーブルの上にはまだ温かい余韻を残す紅茶のカップと、食べ終えたばかりのデザートの皿。けれど、今やそれらは視界の端にあるだけだった。

 アルは、静かにその手をカップから離した。そして、少しだけ躊躇いを見せるような間をおいて、ゆっくりと口を開いた。


「……実は、もう一つ。伝えておきたいことがあるんです」


 その声は、いつもと同じ柔らかさを持っていたのに、どこか深く、そして静かに響いた。


「え……?」


 桃花は目を瞬いた。さっきの「僕は君にしか撮られない」という言葉以上の何かがあるとは思っていなかった。それなのに、アルの瞳はまるで、まだ何も語っていないとでも言うように、真っ直ぐに彼女を見つめていた。

 そのまなざしに、自然と胸の奥がざわめく。

「何を……?」と尋ねかけた、まさにその時だった。

 アルが、ふっと笑った。その笑みは、どこまでも穏やかで、どこか子どもじみた頑固さすら滲ませていて。まるで、最初から決めていたように、彼は言った。


「僕は、桃花のことも、諦めるつもりはないですよ」


 言葉が、落ちた。

 その瞬間、世界の時間がほんのわずかに遅れたような錯覚があった。

 桃花の中に、何かが静かに崩れていく音がした。


「……え……?」


 問い返そうとした声は、かすれたまま、空気の中にほどけた。

 次の瞬間、椅子を引く音がゆっくりと響き、アルの気配が近づいてくるのがわかった。

 そして、頬に、指先が触れた。

 その手は驚くほどあたたかくて、震えなど微塵も感じさせなかった。むしろ、どこか確信に満ちていた。迷いも、逡巡も、なかった。

 気づけば、桃花はそのまま何も言えずにいた。息をすることさえ忘れていた。


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