目の前にあるのは、彼の眼差しだった。
静かで、優しくて、どこか祈るように。
でも、揺るがなかった。
そのまま、ゆっくりと距離が縮まる。
逃げられないのではない。
逃げたいとも思わなかった。
その事実に気づいたときには、もう遅かった。
唇が、触れた。
熱でも、衝動でもない。静かな、けれどたしかな「意志」のこもった口づけだった。
触れるだけの、ほんの短い一瞬。
けれど、世界がすべて、そこに集約されているようだった。
心臓が、強く鳴った。脈の音が耳の奥を支配して、言葉なんて、どこか遠くに霞んでいった。
離れたとき、アルはそのまま手を頬に添えたまま、再び微笑んだ。
「……これも、僕の本当の気持ちです」
囁くようなその声に、何も返すことができなかった。
桃花はただ、瞳を伏せたまま、小さく頷いた。
「……は、はい……」
その夜の灯りが、まるで何かを祝福するように、テーブルのグラスの中でふわりと揺れていた。
朝の光は、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
桃花はその柔らかな明るさに目を細めながら、ゆっくりと玄関のドアを閉めた。靴を脱ぐよりも先に、背中がずるりと扉にもたれかかる。
「……はあ……」
思わず、深い息が漏れた。
昨夜のあのキス。その後の言葉も、表情も、すべてが胸の内に残ったままだ。何度も思い返してしまって、眠ったような、眠れていなかったような。そんな夜の明け方だった。
(……恋なんて、もうしないって、思ってたのに)
ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。
それは、強がりではなくて、自分自身に言い聞かせてきた決意だった。傷つくのが怖いから、何かを期待するのが苦しいから。そうやって、自分を守ってきたのに。
「アルも、同じなのかな……」
なのに今は、アルの笑顔や声が、優しさが、まるで温かな灯のように心の奥で燃えている。
そんなことになるとは思ってもみなかった。
もう一度、ため息をついた。
すると、不意にバッグの中でスマホが震えた。呼び出し音と共に、画面に表示されたのは「アル」の名前。
(……え?)
思わず背筋が伸びた。
ついさっき、別れたばかりだ。最後に「また連絡する」と言っていたけれど、それはもっと遠い未来のことだと、どこかで思っていた。
躊躇いながらも、通話ボタンを押す。
「……はい、もしもし?」
『あ、よかった。起きてました?』
「うん、いま帰ってきたところ、ですけれど。どうかしたんですか?」
自分でも驚くほど自然に声が出た。けれど、その内側では、さっきまでの動揺がまだ続いている。
『あの、急なんですけど……明日、僕の弟を連れて編集部に行ってもいいですか?』
「……え?」
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
弟。アルの、弟?
「もちろん、大丈夫ですけど……どういうこと?」
思わず問い返す。けれど、電話の向こうのアルは、それ以上多くを語ろうとはしなかった。
『ちょっと……紹介したいなと思っただけです。詳しいことは、また明日。ありがとう、桃花』
そして、あっさりと通話が切れた。
桃花はしばらくスマホを見つめたまま、何も言えずにいた。
「……弟って……」
ぽつりと呟いた声が、自分でも驚くほど浮ついていた。
予想もしていなかった言葉と展開に、思わず頭を抱えたくなる。
だが、胸の中に芽生えた小さな期待は、もう消すことができそうになかった。
(なんなんだろう、ほんと……)
そう思いながら、もう一度、ため息をついた。だけど今度は、少しだけ笑ってしまった。
翌朝の編集部は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
けれど桃花は、内心どこかそわそわしていた。スマホのメモには「アル 弟 来社予定」と打たれた一文がじっと光っている。それを何度も開いては閉じ、落ち着かない指先をごまかすようにキーボードを叩く。
(……何を話せばいいんだろう)
会うだけとは聞いたけれど、それでも紹介したいなんて、いきなりすぎる気もする。それに、「弟」というだけで具体的な情報は何も聞いていない。アルと似ているのか、まったく違うのか。それすらもわからない。
そう思いながらも、気づけば席を立ち、コピー機の影に隠れるようにして飯田編集長のデスクへ向かっていた。
「……あの、編集長……ちょっと……」
声を潜めるようにして言うと、編集長はちらりと視線をあげてから、すぐに悟ったようにうなずいた。
「来てるよ。今朝、もう来社している。……応接室に通してある」
「えっ……あ、そうなんですか」
思わず声が上ずるのを抑えながら、桃花は胸の奥を押さえた。
「君に話があるらしい。だから、誰にも言わずに、そのまま来なさい」
静かな声で、それだけを言って編集長はまた仕事に戻った。
(わかっていた、って……)
どうやら、桃花の動揺などすべてお見通しだったようだった。けれど、編集長のその目に、からかいや好奇心の色はなかった。どこか穏やかにうなずいてくれる。
桃花はそっと息を吸い、廊下の突き当たりにある応接室のドアの前に立った。手のひらがじんわり汗ばんでいる。ノックの音が、いつもよりも遠くに響いたように感じた。
「……失礼します」
小さく声をかけてドアを開けると、ふわりとした木の香りの中に、すでに二人の姿があった。
一人はもちろん、アルだった。深いネイビーのシャツに身を包み、姿勢よくソファに腰かけていた。彼女に気づくとすぐに、やわらかく微笑んだ。
「桃花。来てくれてありがとう」
その声に安心しそうになるのを、次の瞬間、隣の青年の存在がぴしりと現実に引き戻した。