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第111話 アルの弟

 目の前にあるのは、彼の眼差しだった。

 静かで、優しくて、どこか祈るように。

でも、揺るがなかった。

 そのまま、ゆっくりと距離が縮まる。

 逃げられないのではない。

 逃げたいとも思わなかった。

 その事実に気づいたときには、もう遅かった。

 唇が、触れた。

 熱でも、衝動でもない。静かな、けれどたしかな「意志」のこもった口づけだった。

 触れるだけの、ほんの短い一瞬。

 けれど、世界がすべて、そこに集約されているようだった。

 心臓が、強く鳴った。脈の音が耳の奥を支配して、言葉なんて、どこか遠くに霞んでいった。

 離れたとき、アルはそのまま手を頬に添えたまま、再び微笑んだ。


「……これも、僕の本当の気持ちです」


 囁くようなその声に、何も返すことができなかった。

 桃花はただ、瞳を伏せたまま、小さく頷いた。


「……は、はい……」


 その夜の灯りが、まるで何かを祝福するように、テーブルのグラスの中でふわりと揺れていた。





 朝の光は、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。

 桃花はその柔らかな明るさに目を細めながら、ゆっくりと玄関のドアを閉めた。靴を脱ぐよりも先に、背中がずるりと扉にもたれかかる。


「……はあ……」


 思わず、深い息が漏れた。

 昨夜のあのキス。その後の言葉も、表情も、すべてが胸の内に残ったままだ。何度も思い返してしまって、眠ったような、眠れていなかったような。そんな夜の明け方だった。


(……恋なんて、もうしないって、思ってたのに)


 ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。

 それは、強がりではなくて、自分自身に言い聞かせてきた決意だった。傷つくのが怖いから、何かを期待するのが苦しいから。そうやって、自分を守ってきたのに。


「アルも、同じなのかな……」


 なのに今は、アルの笑顔や声が、優しさが、まるで温かな灯のように心の奥で燃えている。

 そんなことになるとは思ってもみなかった。

 もう一度、ため息をついた。

 すると、不意にバッグの中でスマホが震えた。呼び出し音と共に、画面に表示されたのは「アル」の名前。


(……え?)


 思わず背筋が伸びた。

 ついさっき、別れたばかりだ。最後に「また連絡する」と言っていたけれど、それはもっと遠い未来のことだと、どこかで思っていた。

 躊躇いながらも、通話ボタンを押す。


「……はい、もしもし?」

『あ、よかった。起きてました?』

「うん、いま帰ってきたところ、ですけれど。どうかしたんですか?」


 自分でも驚くほど自然に声が出た。けれど、その内側では、さっきまでの動揺がまだ続いている。


『あの、急なんですけど……明日、僕の弟を連れて編集部に行ってもいいですか?』

「……え?」


 言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。

 弟。アルの、弟?


「もちろん、大丈夫ですけど……どういうこと?」


 思わず問い返す。けれど、電話の向こうのアルは、それ以上多くを語ろうとはしなかった。


『ちょっと……紹介したいなと思っただけです。詳しいことは、また明日。ありがとう、桃花』


 そして、あっさりと通話が切れた。

 桃花はしばらくスマホを見つめたまま、何も言えずにいた。


「……弟って……」


 ぽつりと呟いた声が、自分でも驚くほど浮ついていた。

 予想もしていなかった言葉と展開に、思わず頭を抱えたくなる。

 だが、胸の中に芽生えた小さな期待は、もう消すことができそうになかった。


(なんなんだろう、ほんと……)

 そう思いながら、もう一度、ため息をついた。だけど今度は、少しだけ笑ってしまった。





 翌朝の編集部は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。

 けれど桃花は、内心どこかそわそわしていた。スマホのメモには「アル 弟 来社予定」と打たれた一文がじっと光っている。それを何度も開いては閉じ、落ち着かない指先をごまかすようにキーボードを叩く。


(……何を話せばいいんだろう)


 会うだけとは聞いたけれど、それでも紹介したいなんて、いきなりすぎる気もする。それに、「弟」というだけで具体的な情報は何も聞いていない。アルと似ているのか、まったく違うのか。それすらもわからない。

 そう思いながらも、気づけば席を立ち、コピー機の影に隠れるようにして飯田編集長のデスクへ向かっていた。


「……あの、編集長……ちょっと……」


 声を潜めるようにして言うと、編集長はちらりと視線をあげてから、すぐに悟ったようにうなずいた。


「来てるよ。今朝、もう来社している。……応接室に通してある」

「えっ……あ、そうなんですか」


 思わず声が上ずるのを抑えながら、桃花は胸の奥を押さえた。


「君に話があるらしい。だから、誰にも言わずに、そのまま来なさい」


 静かな声で、それだけを言って編集長はまた仕事に戻った。

 (わかっていた、って……)

 どうやら、桃花の動揺などすべてお見通しだったようだった。けれど、編集長のその目に、からかいや好奇心の色はなかった。どこか穏やかにうなずいてくれる。

 桃花はそっと息を吸い、廊下の突き当たりにある応接室のドアの前に立った。手のひらがじんわり汗ばんでいる。ノックの音が、いつもよりも遠くに響いたように感じた。


「……失礼します」


 小さく声をかけてドアを開けると、ふわりとした木の香りの中に、すでに二人の姿があった。

 一人はもちろん、アルだった。深いネイビーのシャツに身を包み、姿勢よくソファに腰かけていた。彼女に気づくとすぐに、やわらかく微笑んだ。


「桃花。来てくれてありがとう」


 その声に安心しそうになるのを、次の瞬間、隣の青年の存在がぴしりと現実に引き戻した。


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