夜の街に灯るネオンが、微かに滲んで見える。駅から少し離れた、人気のない並木道のベンチで、桃花は先に腰を下ろしていた。
待ち合わせ場所に向かう足取りが、ほんの少しだけ重たかったのは、アルに会うことが嬉しいのに、今日の出来事をまだ心の中で抱えたままにしているせいだった。数分後、足音がして、彼女が顔を上げると、アルが穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
「こんばんは、桃花。……待たせましたか?」
「ううん、全然。今来たところですから」
いつものやりとり。それだけで、呼吸が少し整う。アルはベンチに座り、少し体を桃花の方に向けた。
「凛のことは、どうでしたか? やはり驚かせてしまいましたよね」
「……え、いえ……全然大丈夫ですから」
「それは良かった。凛は君の写真をずっと見ていたんですよ」
「え……それってアルの写真集、ってことですか?」
確かに兄の久しぶりの写真集ならば、興味があるのかもしれない。それを読んでいるのは確かにおかしいことでもなんでもない。そう思ってうなずくと、アルはふふ、と面白がるように笑った。
「それもありますが、それ以外の雑誌の、桃花が撮ったと思しきものはすべて。なんだかんだ、興味があったんだと思いますよ。家にたくさんあったので」
「そう、なんだ……ふふ。なんか、ほんとに兄弟なんだなって思います」
アルは少し照れたように微笑みながら、頷いた。桃花も笑った。多分、いつもならば家にたくさんあった、という言葉に引っかかるものを感じたかもしれない。どうしてそんなものが、家にたくさんあるのか。それがおかしいことであると、普段ならば気がつくことだってできたはずだ。けれど、その笑みの奥には、まだ言葉にできないものがくすぶっていたのだ。
(言おうか。いや、でも……)
写真集の話。KEYの名前。あの過去。今さら、ここで蒸し返すのかと自分で思ってしまう。それに、もしアルが気にするような素振りを見せたら、その時はどうしたらいいのか。
「桃花?」
ふいに、アルが不思議そうに顔を覗き込んだ。
「……大丈夫ですか?」
「え? うん、なんでもない、ですから」
瞬間、口元が先に動いた。苦しい。けれど、今はこの沈黙を選ぶしかなかった。
(ごめん、アル。……もう少しだけ、自分の中で考えさせて)
そんな言葉を飲み込んだまま、桃花はただ、彼の隣にいるぬくもりだけを感じていた。
言葉にするには、まだ少しだけ、勇気が足りなかった。
「……そう、でしょうか?」
その名を呼ばれるだけで、胸の奥がやわらかく揺れる。アルの声は、夜の冷えた空気の中に溶け込むように穏やかで、どこか迷いを孕んでいた。
次の瞬間、アルの腕がそっと伸びてきた。戸惑う暇もなく、桃花はふわりとその腕の中に引き寄せられていた。驚きに目を見開いたまま、けれど何かを拒む力は、どこにも湧いてこなかった。優しい温度に包まれて、体の芯がゆっくりと緩んでいく。
アルの胸に、頬がふれる。
その柔らかくも頼もしい鼓動が、かすかに聞こえた。
「……僕は、ひどく臆病なんです」
彼の言葉は、まるでどこか自嘲気味だった。
「君に触れるのも、想いを伝えるのも、全部……すごく慎重になってしまう。君を傷つけるのが、何よりも怖い」
その声は、静かだったけれど、確かな熱を帯びていた。彼の感情はそれだけ明瞭だった。アルはどうしても怖がって恐れている。だが、それでも桃花に応えようとしてくれていることもわかっていた。それが嬉しい。
「だから、あえて聞きます。桃花、今、僕が気持ちを伝えても……いいですか?」
問いかけと同時に、彼の腕にわずかに力がこもる。抱きしめるというより、確かめるように。迷っている自分を受け止めてくれるように。
桃花の唇が、わずかに動いた。
うん、と、うなずこうとした。
けれど、その瞬間。胸の奥に、冷たい影が差し込んできた。
(……KEYのこと、写真集の話、言ってない)
たった今、抱かれているこの人に。想いを寄せてくれているこの人に。自分はこれほどまでにいっしょにいても、何も言えていない。あの男の名前を、アルの前に持ち出すことが怖くて、言葉を閉じ込めてしまっていた。
(このまま、何も言わずに、返事だけしてもいいの?)
うなずこうとしていた首が、ふいに止まる。沈黙が生まれた。気づかれたかもしれない、と一瞬思ったが、アルはそのまま、ふ、と笑った。
「……桃花は、そういうところがあるんですね」
「え……?」
顔を見上げると、アルは困ったように微笑んでいた。どこまでも優しく、けれど少しだけいたずらっぽくて。
「そうやって、言葉にできないときは、目がすごく泳ぐんです。今も、少しだけ」
桃花は咄嗟に目を伏せた。
けれど、アルはその様子にすら微笑んでくれる。
「でも……無理に答えを求めません。もし、今じゃないのなら、それでも大丈夫です。だったら……もっとすごい方法で告白しますね」
「……あの、待ってください? 何か、勘違いして……」
思わず顔を上げた。
アルはまるで何かを決意したように、まっすぐな目で見つめ返してくる。
「今日、言葉だけで伝えようと思っていたけど……きっと桃花には、それだけじゃ足りない。だから、もっとすごいことをして驚かせてみせますよ。……それが、今の僕の本気だから」
その言葉は、思いがけず強くて、そして優しかった。桃花の心の中にあった、もやのような迷いが、少しだけ晴れた気がした。
KEYのことを言えなかった罪悪感が、消えたわけではない。けれど。
(私は……どうして、この人にだけ、こんなふうに守られてしまうんだろう)
アルは、何も知らないままなのに。それでも、どこかでちゃんと桃花の「今」を感じ取ってくれているようだった。
「……楽しみに、してます」
やっとの思いで出たその言葉に、アルはゆっくりと頷いた。
「ありがとう。じゃあ……僕も、ちゃんと準備します。桃花に受け入れてもらえるように」
その冗談に、桃花は小さく吹き出した。
「それって、隠しきれていませんよ」
「それでもちゃんとしておきたいんですよ」
夜の風が、少しだけ暖かくなった気がした。