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第116話 少しだけ優しく

 夜の街に灯るネオンが、微かに滲んで見える。駅から少し離れた、人気のない並木道のベンチで、桃花は先に腰を下ろしていた。

待ち合わせ場所に向かう足取りが、ほんの少しだけ重たかったのは、アルに会うことが嬉しいのに、今日の出来事をまだ心の中で抱えたままにしているせいだった。数分後、足音がして、彼女が顔を上げると、アルが穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。


「こんばんは、桃花。……待たせましたか?」

「ううん、全然。今来たところですから」


 いつものやりとり。それだけで、呼吸が少し整う。アルはベンチに座り、少し体を桃花の方に向けた。


「凛のことは、どうでしたか? やはり驚かせてしまいましたよね」

「……え、いえ……全然大丈夫ですから」

「それは良かった。凛は君の写真をずっと見ていたんですよ」

「え……それってアルの写真集、ってことですか?」


 確かに兄の久しぶりの写真集ならば、興味があるのかもしれない。それを読んでいるのは確かにおかしいことでもなんでもない。そう思ってうなずくと、アルはふふ、と面白がるように笑った。


「それもありますが、それ以外の雑誌の、桃花が撮ったと思しきものはすべて。なんだかんだ、興味があったんだと思いますよ。家にたくさんあったので」

「そう、なんだ……ふふ。なんか、ほんとに兄弟なんだなって思います」


 アルは少し照れたように微笑みながら、頷いた。桃花も笑った。多分、いつもならば家にたくさんあった、という言葉に引っかかるものを感じたかもしれない。どうしてそんなものが、家にたくさんあるのか。それがおかしいことであると、普段ならば気がつくことだってできたはずだ。けれど、その笑みの奥には、まだ言葉にできないものがくすぶっていたのだ。


(言おうか。いや、でも……)


 写真集の話。KEYの名前。あの過去。今さら、ここで蒸し返すのかと自分で思ってしまう。それに、もしアルが気にするような素振りを見せたら、その時はどうしたらいいのか。


「桃花?」


 ふいに、アルが不思議そうに顔を覗き込んだ。


「……大丈夫ですか?」

「え? うん、なんでもない、ですから」


 瞬間、口元が先に動いた。苦しい。けれど、今はこの沈黙を選ぶしかなかった。


(ごめん、アル。……もう少しだけ、自分の中で考えさせて)


 そんな言葉を飲み込んだまま、桃花はただ、彼の隣にいるぬくもりだけを感じていた。

 言葉にするには、まだ少しだけ、勇気が足りなかった。


「……そう、でしょうか?」


 その名を呼ばれるだけで、胸の奥がやわらかく揺れる。アルの声は、夜の冷えた空気の中に溶け込むように穏やかで、どこか迷いを孕んでいた。

 次の瞬間、アルの腕がそっと伸びてきた。戸惑う暇もなく、桃花はふわりとその腕の中に引き寄せられていた。驚きに目を見開いたまま、けれど何かを拒む力は、どこにも湧いてこなかった。優しい温度に包まれて、体の芯がゆっくりと緩んでいく。

 アルの胸に、頬がふれる。

 その柔らかくも頼もしい鼓動が、かすかに聞こえた。


「……僕は、ひどく臆病なんです」


 彼の言葉は、まるでどこか自嘲気味だった。


「君に触れるのも、想いを伝えるのも、全部……すごく慎重になってしまう。君を傷つけるのが、何よりも怖い」


 その声は、静かだったけれど、確かな熱を帯びていた。彼の感情はそれだけ明瞭だった。アルはどうしても怖がって恐れている。だが、それでも桃花に応えようとしてくれていることもわかっていた。それが嬉しい。


「だから、あえて聞きます。桃花、今、僕が気持ちを伝えても……いいですか?」


 問いかけと同時に、彼の腕にわずかに力がこもる。抱きしめるというより、確かめるように。迷っている自分を受け止めてくれるように。

 桃花の唇が、わずかに動いた。

 うん、と、うなずこうとした。

 けれど、その瞬間。胸の奥に、冷たい影が差し込んできた。


(……KEYのこと、写真集の話、言ってない)


 たった今、抱かれているこの人に。想いを寄せてくれているこの人に。自分はこれほどまでにいっしょにいても、何も言えていない。あの男の名前を、アルの前に持ち出すことが怖くて、言葉を閉じ込めてしまっていた。


(このまま、何も言わずに、返事だけしてもいいの?)


 うなずこうとしていた首が、ふいに止まる。沈黙が生まれた。気づかれたかもしれない、と一瞬思ったが、アルはそのまま、ふ、と笑った。


「……桃花は、そういうところがあるんですね」

「え……?」


 顔を見上げると、アルは困ったように微笑んでいた。どこまでも優しく、けれど少しだけいたずらっぽくて。


「そうやって、言葉にできないときは、目がすごく泳ぐんです。今も、少しだけ」


 桃花は咄嗟に目を伏せた。

 けれど、アルはその様子にすら微笑んでくれる。


「でも……無理に答えを求めません。もし、今じゃないのなら、それでも大丈夫です。だったら……もっとすごい方法で告白しますね」

「……あの、待ってください? 何か、勘違いして……」


 思わず顔を上げた。

 アルはまるで何かを決意したように、まっすぐな目で見つめ返してくる。


「今日、言葉だけで伝えようと思っていたけど……きっと桃花には、それだけじゃ足りない。だから、もっとすごいことをして驚かせてみせますよ。……それが、今の僕の本気だから」


 その言葉は、思いがけず強くて、そして優しかった。桃花の心の中にあった、もやのような迷いが、少しだけ晴れた気がした。

 KEYのことを言えなかった罪悪感が、消えたわけではない。けれど。


(私は……どうして、この人にだけ、こんなふうに守られてしまうんだろう)


 アルは、何も知らないままなのに。それでも、どこかでちゃんと桃花の「今」を感じ取ってくれているようだった。


「……楽しみに、してます」


 やっとの思いで出たその言葉に、アルはゆっくりと頷いた。


「ありがとう。じゃあ……僕も、ちゃんと準備します。桃花に受け入れてもらえるように」


 その冗談に、桃花は小さく吹き出した。


「それって、隠しきれていませんよ」

「それでもちゃんとしておきたいんですよ」


 夜の風が、少しだけ暖かくなった気がした。


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