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第115話 過去からの連絡

「……本当に嫌なら、断っても構わない。無理にとは言わない」


飯田編集長の声は、静かだった。だが、飯田編集長は知っている。少なくとも、KEYと桃花が過去に何かあったことは。


「けど、依頼は……正式なものだ。向こうも、今回は真面目にやるつもりだと……担当者は言っていたよ。まぁ、あの男が真面目に今回のことをどれだけ理解しているのか、私には分からないけれどね」


 ほんの少しだけ皮肉を混ぜたその言葉に、桃花は小さく笑った。


(……編集長は、やっぱり気づいてたんだ)


「KEY……雲旗慧、今もライブ中心にやってますよね」

「そうだな。今では大きなドームでも公演を打つくらい、人気が出てきているらしい。……才能だけは、あるんだよ。ただ……あまりいい噂を聞かない人物でもあるね。特に女性問題に関しては、感心しないようなことがあるのも事実だ」


 綾乃からも聞いたことがある。

 KEYはあの頃と何も変わっていない、と。


「……ええ。そこは、否定しません」


 静かにそう答えながら、桃花は手元に目線を落とした。アルとは自分が「レンズを向ける理由」が、同じようでいて、まったく違うことに気づく。

 KEYを撮る。それができるのか。今の自分に。


「……少し、時間をもらってもいいですか? その、中途半端に、答えを出したくないんです」


 本来、こんなこと言えるはずがない。桃花だってわかっているのだ。

 仕事と言われれば、どんな相手であっても、写真を撮らなくてはならない。それをこうして願ってしまっている。


「もちろん」


飯田編集長はそう言って、席を立とうとした。しかし、立ち上がる直前、ふともう一度桃花の方に顔を向けて、こう言った。


「それでも、どんな決断をしても応援するとも」


 そう言って、静かに立ち去る編集長の背を、桃花は目で追った。

 胸の奥で、何かが、まだ言葉にならないままに揺れていた。


(わかっている……それが、普通ではありえないことくらい)


 こんな仕事、選べる立場ではないことは理解している。それなのにまだ桃花の身体の震えは止まりそうになかった。


(でも、本当に……彼を……?)


 桃花は編集長の背を見送ったあとも、しばらくモニターを眺めたまま動けなかった。指先はキーボードの上で止まり、画面には書きかけの原稿と、撮影予定のスケジュールが並んでいたけれど、目は焦点を結んでいなかった。


(……撮れるの? 私に、KEYを……?)


 心の奥底にしまっていたはずの名前が、まるで氷水のように胸を濡らしていた。

 雲旗慧。KEY。彼の名が、今また自分の現実に戻ってくるとは思っていなかった。


(だって、終わったはずだったのに)


 あの頃、大学の構内でギターを抱えていた背中。夜のスタジオで交わした夢の話。軽々しく放たれた「一番」の言葉。そのすべてを、桃花は一度、写真に込めようとした。けれど、彼はそれを「重い」と笑い、あっさりと裏切った。


(今さら何? 何をしたくてこんなことをしようとしているんだろう?)


 彼はきっと変わっていない。きっと今でも女の子を自分が好きにできる玩具くらいにしか考えていないはずだ。それでもあの男には、相変わらずのカリスマと、音楽の魔力がある。ちゃんと化粧をしてカッコよくしていれば、写真としてはたしかに「絵になる」被写体だ。……けれど。


(私のことを見て、そのネームバリューだけでこれを依頼してきたのは明らか)


 アルを撮ったときのような、あの確信。凛くんと目が合ったときの、心を貫くような直感。今のKEYには、それがなかった。ただ過去の痛みが、じんわりと滲んでくるばかりだった。


「……夢のため、か……」


 ぽつりと、つぶやいた。


(こんなことで、私はぐらついてる。……でも、それでも、夢は夢で……)


 ずっと望んできたことだった。写真で誰かの物語を切り取り、残していくこと。それがきっかけで、いつか名前を知ってもらえて、自分の感性を武器にして、誰かの背中を押せるような、そんな作品を残せるようになること。

 KEYの写真集。たしかにそれは、実績として大きなチャンスだ。写真家としてのステップになる。わかっている。


(せめてこれを、アルに……ううん、アルに相談しても……いいの?)


 思考がそこで止まる。彼なら、きっと受け止めてくれる。そう信じている。だけど、それでも、胸の奥で躊躇いが膨らむ。アルに甘えてしまいたくなる自分が怖かった。

 自分の夢は、自分で決めなければならない。好きだからこそ、簡単に彼の前で迷う姿を見せてはいけない。そんな気がしていた。

スマホが震えた。桃花はわずかに肩をすくめて、画面を見た。


『今夜、会えますか?』


 アルからのメッセージだった。文字を見た瞬間、心が跳ねた。


「あ……アル」


 すぐに返信を打つ指が、わずかに震える。


「もちろん、だいじょうぶです」


 一言、そう打って送信する。それだけで、少しだけ世界がやわらかくなった気がした。


(でも、言えるわけがないよね……こんなことは、自分で決めなくちゃいけないことだから)


 それでも心の中に、何か嫌な影を落としているのは、桃花もわかっていた。


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