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第114話 KEY

「ま、待って……急にそんな、大それた……」

「だって、さっき自分で言ったじゃないですか。撮るって。証明すると。……ね、凛? そもそも凛はこんなところ、イヤだったら来ないですし」

「ちょ……兄さん! ……もう」


 そう言って、アルが弟に視線を向ける。にこやかにすべてを読み取っているような表情をしている。それに対して凛は、というと、どこか納得しきれないような、複雑な表情をしていた。


「はあ……あんたさ、本当に面倒な人だね」


 ぽつりと、そう言う凛の声に皮肉はあったが、拒絶はなかった。


「でも……いいよ。撮られてやる。兄さんが見つけられた顔って言うなら、今度は俺が、それを見極めてやる番だから」


 凛が腕を組みながら、まるで勝負でも挑むような瞳で言い放つ。それを見て、アルはどこか満足げに目を細めた。


「ありがとう、凛。……でもね、桃花は勝負のつもりで撮る人じゃないよ」

「そうなの?」

「そう。たぶん、見つけるつもりで、撮る人なんです」


 その言葉に、桃花は不意に胸の奥をぎゅっと締めつけられたような気がした。

 アルのその言葉は、桃花の写真を誰よりも近くで見て、受け止めて、そして見つけられた彼だからこそ言えるものだった。

 照れくささと、少しの自信が混ざるように、桃花はふわりと息をついた。


「じゃあ……凛くん、撮らせてね。ほんとに、ちゃんと、あなたを作品にするから」


 その言葉に、凛はふっと目を細めた。


「……変な角度から撮らないでよ」


 それは、了承のサインだった。

 きっと作品と言われてぎょっとしない。それはアルの弟と、と言われて納得できる。


「……ほんと、兄弟なんだね。目が、似てる」

「はい。そうでしょう? ふふ、桃花にもそう思いますか?」


 ぽつりとこぼした桃花の言葉に、アルがかぶせてくる。凛は一瞬眉を寄せたが、すぐにそっぽを向いた。


「やめてよ、あんたと兄さんの空気に巻き込まれるの……恥ずかしい」

「えっ、私たち……そんな空気、出してた?」


 桃花が思わず焦って言い返すと、凛は腕を組んだまま視線を泳がせた。


「いや、知らないけど。……なんか、わかるんだよ。兄さん、昔よりも穏やかっていうか……顔、変わった」


 凛の声は低く、どこか少しだけ寂しげだった。


「昔の兄さんって、もうちょっと冷たかった。いつも距離があって……何考えてるのか分からないっていうか。でも……あの写真集の中の兄さんは、ちゃんと誰かを見てる目だった。……それが、気になったんだ」


 その言葉に、桃花は胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。


「凛くん……」

「……ま、言っとくけど、変なカメラ目線は無理だから。自然に、撮ってよ」


 最後のその一言で、空気が少しだけ緩んだ。

 桃花は、笑いながら小さくうなずいた。




編集部に戻った桃花は、自分のデスクに腰を下ろすと、そっと息を吐いた。気がつけば、指先がキーボードの上を無意味にたどっていた。まだ凛の言葉が耳の奥で余韻を残していた。


(……凛くん、撮らせてくれるって、本当に)


ぽつりと漏らした心の声に、自然と頬がゆるんだ。カチッとキーをひとつ押す音が、なんとなく心地よく響く。まるで、次のシャッター音が今にも聞こえてくるようで、桃花は、小さく微笑んだ。


(やっぱり……嬉しいな。アルも綺麗だったけれど……凛くんも綺麗で、かっこいいから……)


あんなに強く見えて、繊細で、人の心にまっすぐな目をした子が、自分に撮らせてくれると言ってくれた。それはたぶん、アルが信じてくれているからだ。兄弟、家族、ひとりの人として、誰かの「大切」を預かるということ。その重みも、喜びも、今ならわかる気がした。


(ちゃんと計画を立てて、アルにも報告しないと……)


ふ、と笑みを浮かべながら、モニターの端に目をやったそのときだった。


「……望月くん」


 控えめな声が、すぐ背後から届いた。驚いて振り向くと、そこには飯田編集長が、どこか歯切れの悪い表情で立っていた。


「あっ……はい、なんですか?」


 飯田編集長がこんな風に声をかけてくるときは、大抵、面倒な仕事か、もしくはかなり気を遣う話題のときだ。案の定、編集長は少し困ったように眉をひそめ、桃花の隣の椅子に腰を下ろした。

 そして、一拍置いてから、静かに口を開いた。


「……あまり気が進まないかもしれないが……少し、頼まれてほしい撮影があってね」

「えっと……もしかして私を指名で?」

「そういうことになる……」


桃花は、ピンと背筋を伸ばした。

編集長がこんな前置きをするということは、そうとう厄介な依頼だ。


「……誰の撮影ですか?」


そう聞き返した自分の声が、どこかで震えていたのが、自分でも分かった。

飯田編集長はしばし躊躇い、それから少しだけ視線を逸らしてから、ぽつりと答えた。


「『深淵の扉』の……写真集だ。急ぎなんだが……グループのメンバーから写真集をみて、君を希望していると、事務所から連絡があった」

「……っ!」


 桃花の体が一瞬、固まる。言葉が出てこなかった。喉の奥で、ひゅうっと冷たい空気が詰まるような感覚が走った。


「……誰が、希望したんですか」

「雲旗慧……ボーカルのKEY、だそうだ」


 その名を聞いた瞬間、桃花は思わず目を伏せた。

 記憶の奥底から、忘れかけていたような映像が立ち上がってくる。

 大学時代、音楽と夢と恋に酔っていた日々。バンドマンという肩書きに目を輝かせ、奔放で不器用で、そして誰よりも魅力的に見えた彼。でもその裏で、彼は、あっさりと、何もかも裏切っていた。

浮気、女遊び、嘘、自己中心的な言動。そしてあのとき、最後に残ったのは、桃花の全ての「作品」を否定するような言葉。


(……KEYが、私に……?)


 信じられないような思いで桃花は編集長を見つめた。けれど彼の表情は、どこまでも誠実だった。


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