だが、思考を追う暇もなく、スタッフの声が飛んだ。
「KEYさん、ポジション戻ります。照明、微調整入ります」
「はいはい、桃花、カッコよく撮れよ? つぅか、そっちが集中してないと、こっちの集中も切れるんだよねぇ」
KEYがへらへらと冗談交じりに言いながら、ライトの下に立つ。桃花は再びファインダーを覗いた。けれど、心が静まらない。どこか遠くで、少女の声が囁くように響いている気がして、レンズ越しの彼がぼやけて見えた。
(集中……しないと)
その一心で、桃花は撮った。無心で、無理やり没入するように。シャッターが連続で切られていく。構図は決して崩していない。照明も、角度も、すべて計算通り。
そのはずなのだが。
(なにかが、引っかかる)
表情が、決まらない。ポーズは完璧で、衣装も申し分ないのに、どこか空っぽに感じた。いつもなら、シャッターの瞬間に訪れる確信。
これはいい写真だ、という手応えが、今回はまったくなかった。
「じゃあ、次は来週か……またな」
「……はい」
無事にスタジオ分を終えた後、桃花は片隅でモニターに撮影データを映しながら、何枚かを確認していた。ふと、後ろから声がする。
「どう? うまくいったかな?」
飯田編集長だった。桃花の撮影データを確かめるようにモニターを覗き込む。
「……悪くは、ないと思うんです。モデルがなにしろ、今話題の人なので」
KEYは確かに顔かたちは悪くない。
こういう人が好きなら、きっとこういう写真集を作っても納得するだろう。そういう「無難」なものはできている。
「うん……悪くはないけど……なんだろうね。自分でも納得はできていないんだね?」
「……はい」
桃花は小さく頷いた。飯田編集長何枚かのカットをスクロールで送っていき、数秒沈黙した後、静かに言った。
「……迷いが出てるね」
「……え?」
桃花の指が止まる。
「手は動いてる。目も構図も問題ない。でも、写真に引きがない。望月くんが、何かに気を取られてるときのやつだ」
その一言に、胸の奥を突かれたような感覚が走った。
「正直、技術でごまかしてる。けどそれじゃ、この仕事の意味がなくなるものだ。全力で、あちらに向き合っていない。だから、納得ができるものが撮れない」
桃花は言葉を失った。正論だった。的確すぎて、返せなかった。
KEYを「作品」として見ていたはずなのに、今、自分は目の前の不安に心を奪われていた。それが、レンズ越しの彼から生気を奪っていたのだ。
少女の名前を聞いた瞬間から、すべての感覚がぶれていた。
KEYの挑発も、癖のある態度も、これまでならいなしてこれたのに、今はそれすら心に引っかかる。何か怖いものを知ってしまった自分が、撮ることの中心から少しずつずれてしまっていた。
「……すみません」
「謝らなくていい。でも、撮る行為は、こんなことを言うのは時代錯誤かもしれないが、心とか感覚とかそういう微妙なところもあるからね。迷ったときは、まず自分に何が起きてるかを認めた方がいい」
それだけ言って、飯田は軽く肩を叩いて離れていった。
モニターには、どこか魂の入らないKEYの姿が並んでいた。
桃花は静かに、目を閉じた。
(もう一度、ちゃんと見ないと。KEYのことも。私自身のことも)
小さく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
夜の帰り道。
桃花は帰宅の足をゆるめ、手の中のスマートフォンを見つめていた。
アルに、話すべきか。
何度も悩んだが、やはりもう限界だった。迷っていることが、作品にも出てしまっているのは明白で、それを指摘された今、自分ひとりで抱え込むことの危うさをようやく認めざるを得なかった。
「本当に、頼っていいのか、な……」
アルの過去はわかっている。
大事な人。
アイドルの女の子、カナ。
彼女はアルと付き合っていて、そして壊された。そして自ら命を絶った。そんな彼女のことをわかっていながら、その過去に関わるかもしれないことを話していいのか。
帰り道にずっと考えてしまう。だが、彼女、夜啼鈴芽のことが消えない。彼女がまた桃花の前にでてくるかもしれない、という恐怖がずっと最近は付きまとっている。
「……だから」
桃花は息をつくと、そのまま足早に家に帰る。
鍵を閉めて、気配を伺う。そこには闇があるばかりで、それ以上の物音はしない。多分、いない、はずだ。
あの日、金槌をもって追いかけられた時から、もう彼女の姿は見ていない。それがまた不気味だった。
「……ここで、なら」
誰も扉の前にいないことを確認しながら、桃花はそっとスマートフォンを操作してアルに電話をした。
通話の発信音。数回鳴った後、アルの柔らかな声が受話口から流れてきた。
『はい、桃花? どうしました?』
それだけで、喉が詰まった。平静を装いたいのに、唇がわずかに震える。
「……今、大丈夫ですか?」
『ええ。ちょうど手が空きました。……どうしました? 何かありましたか?』
やさしい声だった。けれど、その裏にある敏感な察知力を、桃花はよく知っている。きっと、もう何かを感じ取っているのだ。