「そっちの部屋、すぐ横と、さらにもう一室。あそこ、アルが買うてな。俺らに使わせてくれてる」
「えっ……? あ、待って、どういう、こと……?」
指を刺されたのは、マンションの桃花の部屋の隣の部屋である。そんなところを買った、という意味がよくわからなかったのである。
「いやほんま、びっくりしたで。分譲型の賃貸マンション、まさか買い取りにくるとはな。アルって、そういうとこだけ無駄に潔いわ。最初、俺も冗談かと思たもん」
桃花は言葉を失った。
隣の部屋と、そのさらに隣……? まさか、今自分が立っているこの部屋の両サイドを、アルがまるごと購入したというのか。
「ちょ、ちょっと待って。アルが……このマンションの、部屋を? 二部屋も?」
「せや。ひとつは、凛の拠点用。もうひとつは、俺用や。いうても、俺は常駐せんけどな。交代で見張れるように、拠点だけは持っとかんと」
「見張る……?」
「そういうこと」
その言葉に、ずっと押し殺してきた現実が、ぐっと重くのしかかる。
「だから、兄さんとのためにここに住むから」
「家賃まけてくれる言うたからな。やから、こっちでの仕事の時の拠点ほしかってん。俺な、実は枕が変わると眠られへんタイプやからなあ」
京志郎の冗談めかした語り口に、桃花はようやく実感として状況を受け止めはじめた。
これから起こるかもしれない何かに備えて、アルはここまでの準備をしていた。
しかも、それを、桃花に知らせる前に、先に手を打っていた。
それがアルらしいと思う反面、ぞっとするほど現実的でもあった。
「……じゃあ、凛くんは、本当にここに……」
「うん、しばらくは。学校と仕事の合間縫って、いろいろやることあるから。あんたに何かあったとき、すぐ動けるように」
凛は静かにそう言うと、視線を真っ直ぐ桃花に向けた。
その表情は年齢よりもずっと大人びていて、胸の奥に刺さるような誠実さがあった。
「大丈夫。ちゃんと守るから」
その一言に、桃花は心の奥がじんと温かくなるのを感じた。
怖い。
あの夜啼鈴芽の存在が、背後に黒い影を落とし続けているのは変わらない。
けれど、こうして手を伸ばしてくれる人がいる。そう思えることが、どれほど心を救うか。
「……ありがとう、ほんとに」
ふっと力の抜けたような声で桃花がつぶやくと、凛は帽子を軽くかぶり直しながら微笑んだ。
「別に、兄さんのためだから」
「素直やあらへんなあ」
それに京志郎もため息をついていた。
「ま、とりあえず、挨拶も済んだし、引っ越しソバでも、食べよか」
ぽつりと京志郎が言ったとき、桃花は驚いてしまった。
「え……な、引っ越しって……その、一時的にってことなんですよね? なんなら、京志郎さんは一時的に借りの宿って」
思わず苦笑いを浮かべる桃花に、京志郎はにやりと笑い返す。
「せやけど、引っ越しは引っ越しやろ。まあ……なんやお姉さんもいろいろあったみたいやしなあ。こういう節目には、あったかいもん食うのがええやろ」
凛はというと、少しだけ眉をひそめながらも、「まあ……兄さんもそういうの気にする人だし」と、小さくうなずいた。どうやら、この引っ越しソバはアルの中でも織り込み済みなのかもしれない。
数十分後、三人は桃花の部屋のリビングに並んでいた。カセットコンロをテーブルの上に置き、スーパーで買ったパックのかけそばに、京志郎が薬味を添えただけの簡単な夕食だったが、その湯気だけで、どこかほっとするものがあった。
外の気配をうかがいながら戸締まりを済ませたあと、桃花はようやく自分が日常の中に戻ってきたと感じていた。あの少女の笑顔、金槌の冷たい輝き。
(さすがに今鈴芽が来たら、なんとかなるのかな)
それらがまだ背中に張りついているようだったが、今はこうして誰かがいる。見守ってくれる存在がすぐ近くにいることが、何よりも心強かった。
「いただきます」
凛が先に箸を取り、京志郎もそれに続く。桃花も遅れてそっと手を合わせた。
どこか場違いなほど穏やかな時間だった。湯気の向こうで、凛が少し気まずそうに黙っているのを横目に、京志郎が茶碗を持ちながら口を開く。
「なあ、あいつのこと、気になるんか?」
「……気になってない、とは言えません」
桃花は、ふうっと湯気を吐きながら、手元のそばを少しすすった。あたたかさが喉を通る。それだけで、心が落ち着くような気がした。だから、考えもまとまっていく気がする。
しばらく間を置いてから、彼女は口を開いた。
「……アルは、どうして……自分で姿を現さないんでしょうね」
素直な疑問だった。彼が誰よりも心を寄せてくれていることはわかっている。何かあればすぐに動いてくれる。けれど、だからこそ、なぜ彼自身が直接、傍に来ようとしないのか。それがずっと、胸の奥にひっかかっていた。
京志郎はそばをすすりながら、箸を置き、少しだけ顎に手をあてて考え込む。
「普通やったらな……まあ、いろいろとトラウマとか、あるんちゃうか」
その声は、軽くも重くもなかった。ただ、現実として、そういう可能性もあると理解しているような響きだった。
「トラウマ、ですか。ていうか、京志郎さんは全部聞いて?」
「せや。あいつ、前の件……元カノのことやな。あれで、自分がそばにいることで人が壊れる、って思い込んでる節あるやろ。まあ……俺も一応なんかあるかもしれんし聞いとけ、言われて無理やり聞かされたんやけれどな」
その言葉に、桃花の手がぴたりと止まる。そうだ。アルは過去に大切な人を失っている。そのとき、傍にいたことで傷を広げたと思っているのなら、桃花に会いに来ないのも納得はできる。