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第129話 三人での邂逅

「そっちの部屋、すぐ横と、さらにもう一室。あそこ、アルが買うてな。俺らに使わせてくれてる」

「えっ……? あ、待って、どういう、こと……?」


 指を刺されたのは、マンションの桃花の部屋の隣の部屋である。そんなところを買った、という意味がよくわからなかったのである。


「いやほんま、びっくりしたで。分譲型の賃貸マンション、まさか買い取りにくるとはな。アルって、そういうとこだけ無駄に潔いわ。最初、俺も冗談かと思たもん」


 桃花は言葉を失った。

 隣の部屋と、そのさらに隣……? まさか、今自分が立っているこの部屋の両サイドを、アルがまるごと購入したというのか。


「ちょ、ちょっと待って。アルが……このマンションの、部屋を? 二部屋も?」

「せや。ひとつは、凛の拠点用。もうひとつは、俺用や。いうても、俺は常駐せんけどな。交代で見張れるように、拠点だけは持っとかんと」

「見張る……?」

「そういうこと」


 その言葉に、ずっと押し殺してきた現実が、ぐっと重くのしかかる。


「だから、兄さんとのためにここに住むから」

「家賃まけてくれる言うたからな。やから、こっちでの仕事の時の拠点ほしかってん。俺な、実は枕が変わると眠られへんタイプやからなあ」


 京志郎の冗談めかした語り口に、桃花はようやく実感として状況を受け止めはじめた。

 これから起こるかもしれない何かに備えて、アルはここまでの準備をしていた。

 しかも、それを、桃花に知らせる前に、先に手を打っていた。

 それがアルらしいと思う反面、ぞっとするほど現実的でもあった。


「……じゃあ、凛くんは、本当にここに……」

「うん、しばらくは。学校と仕事の合間縫って、いろいろやることあるから。あんたに何かあったとき、すぐ動けるように」


 凛は静かにそう言うと、視線を真っ直ぐ桃花に向けた。

 その表情は年齢よりもずっと大人びていて、胸の奥に刺さるような誠実さがあった。


「大丈夫。ちゃんと守るから」


 その一言に、桃花は心の奥がじんと温かくなるのを感じた。

 怖い。

 あの夜啼鈴芽の存在が、背後に黒い影を落とし続けているのは変わらない。

 けれど、こうして手を伸ばしてくれる人がいる。そう思えることが、どれほど心を救うか。


「……ありがとう、ほんとに」


 ふっと力の抜けたような声で桃花がつぶやくと、凛は帽子を軽くかぶり直しながら微笑んだ。


「別に、兄さんのためだから」

「素直やあらへんなあ」


 それに京志郎もため息をついていた。


「ま、とりあえず、挨拶も済んだし、引っ越しソバでも、食べよか」


 ぽつりと京志郎が言ったとき、桃花は驚いてしまった。


「え……な、引っ越しって……その、一時的にってことなんですよね? なんなら、京志郎さんは一時的に借りの宿って」


 思わず苦笑いを浮かべる桃花に、京志郎はにやりと笑い返す。


「せやけど、引っ越しは引っ越しやろ。まあ……なんやお姉さんもいろいろあったみたいやしなあ。こういう節目には、あったかいもん食うのがええやろ」


 凛はというと、少しだけ眉をひそめながらも、「まあ……兄さんもそういうの気にする人だし」と、小さくうなずいた。どうやら、この引っ越しソバはアルの中でも織り込み済みなのかもしれない。

 数十分後、三人は桃花の部屋のリビングに並んでいた。カセットコンロをテーブルの上に置き、スーパーで買ったパックのかけそばに、京志郎が薬味を添えただけの簡単な夕食だったが、その湯気だけで、どこかほっとするものがあった。

 外の気配をうかがいながら戸締まりを済ませたあと、桃花はようやく自分が日常の中に戻ってきたと感じていた。あの少女の笑顔、金槌の冷たい輝き。


(さすがに今鈴芽が来たら、なんとかなるのかな)


それらがまだ背中に張りついているようだったが、今はこうして誰かがいる。見守ってくれる存在がすぐ近くにいることが、何よりも心強かった。


「いただきます」


 凛が先に箸を取り、京志郎もそれに続く。桃花も遅れてそっと手を合わせた。

 どこか場違いなほど穏やかな時間だった。湯気の向こうで、凛が少し気まずそうに黙っているのを横目に、京志郎が茶碗を持ちながら口を開く。


「なあ、あいつのこと、気になるんか?」

「……気になってない、とは言えません」


 桃花は、ふうっと湯気を吐きながら、手元のそばを少しすすった。あたたかさが喉を通る。それだけで、心が落ち着くような気がした。だから、考えもまとまっていく気がする。

 しばらく間を置いてから、彼女は口を開いた。


「……アルは、どうして……自分で姿を現さないんでしょうね」


 素直な疑問だった。彼が誰よりも心を寄せてくれていることはわかっている。何かあればすぐに動いてくれる。けれど、だからこそ、なぜ彼自身が直接、傍に来ようとしないのか。それがずっと、胸の奥にひっかかっていた。

 京志郎はそばをすすりながら、箸を置き、少しだけ顎に手をあてて考え込む。


「普通やったらな……まあ、いろいろとトラウマとか、あるんちゃうか」


 その声は、軽くも重くもなかった。ただ、現実として、そういう可能性もあると理解しているような響きだった。


「トラウマ、ですか。ていうか、京志郎さんは全部聞いて?」

「せや。あいつ、前の件……元カノのことやな。あれで、自分がそばにいることで人が壊れる、って思い込んでる節あるやろ。まあ……俺も一応なんかあるかもしれんし聞いとけ、言われて無理やり聞かされたんやけれどな」


 その言葉に、桃花の手がぴたりと止まる。そうだ。アルは過去に大切な人を失っている。そのとき、傍にいたことで傷を広げたと思っているのなら、桃花に会いに来ないのも納得はできる。




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