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第百九十六話 夢の戦い

 気付けば真才は、その空間に迷い込んでいた。


 白く眩い泡沫の世界が視界いっぱいに広がる場所。


 見渡す限り何もなく、線と認識できる細い光だけが形あるものを浮かび上がらせている。


 そんな視界の先でぼんやりと影を灯すものがあった。


 ──誰かの後ろ姿だ。


 その後ろ姿に、真才は小さくため息を零す。


「……もう、ここには来ないと思っていたんだけど」


 鈍化している意識に軽いショックを受けつつも、真才は何とか自分の思考が正常に動いていることを確かめる。


 その場に立ってはいるものの、体中のあらゆる感覚がない。ただ"考える"ということだけができる状態。まるで金縛りにでもあったかのような不自由さ。


 つまりは『夢の中』である。真才はそれを今この瞬間で自覚する。


 何故なら、目の前に佇む男の後姿がそのことを教えてくれているから。


「不服そうだな」

「……当然」


 振り向いて見える顔に嫌気がさして、真才は天竜以上に嫌悪する気持ちを露わにする。


 その男の正体は、自分だった。


 しかし、鏡に映る姿とは対照的に強気な喋り方をしているそれは、真才が思う自分自身とは少しばかり違う。


 ──佇んでいるのは『自滅帝』だ。真才は今、自滅帝と向かい合っている。


「夢の中なのに思考がハッキリしている。……それに、ちょっと欠けてる気がするんだけど」

「欠けた部分はこっちの思考だな」

「なんで分かれてるの?」

「さぁ? 寝る直前まで脳内将棋でもしていたせいじゃないか?」

「……」


 脳内将棋とは、将棋盤を脳内で思い浮かべて駒を動かすことである。


 よく脳内で将棋を指すことと勘違いされやすいが、将棋は独立した2つの思考が無ければ成立しないため、実際にやっていることは棋譜並べや一人将棋といったもの。


 ──しかし、真才の場合はその間違った例に当てはまるものだった。


 そう、自滅帝の存在だ。


 渡辺真才の思考と自滅帝の思考は全くの別物である。それは将棋戦争という一種の競技においてのみ限定的に発現する思考を、現実でも意図的に切り替える特訓を長年行ってきた結果生まれ出たもの。


 限りなく2つに近い思考の分離。真才はこれを有効活用すべく、常日頃から脳内将棋で自分と自滅帝の指し手を分けて戦っていた。


 しかし、その思考は二重人格のように完璧に分けられているわけではない。自滅帝の思考に対しても互いの情報量が一切変化しないそれは、あくまで真才自身が持つ一種の状態である。


 ゆえに、自分対自分で脳内将棋を行ったとて、そこから得られるものはせいぜい自身の戦術の見直し程度だった。


 そして、そんな真才が数年ほど前、過度なストレスによって見た幻覚が今回のような泡沫の光景である。


 真才は沈黙しながらもその原因を模索する。


 今はWTDT杯前日・・・・・・・、時間帯的には当日の夜中だ。


 根を詰めすぎた結果か、緊張によるストレスか、それともこの後に使う膨大な策が脳の許容量を超えてしまったのか。


 そんな風に様々な理由が考えられる中、真才は白くノイズ掛かっている自滅帝をハッキリと睨みつけながら尋ねた。


「──何の用?」

「……まあ、座れ」


 自滅帝は横にある真っ白なテーブルと、それを挟むように置かれたソファへ目線を向ける。


 その真っ白なテーブルには、うっすらと将棋盤のようなものが見えている。


 しかし、その将棋盤はまるでガラスケースに閉じ込められているかのようにテーブルの中へと埋まっていた。


「やるの? 指先が動かないんだけど」

「駒を掴む必要はない。──ここで指せ」


 そう言って、自滅帝は自分の頭を指さす。


 それはいつもやっている脳内将棋。それも戦術を磨く砥石のように使っていた自滅帝からの、今までにない挑戦状。


 どちらが本当の思考なのか、分離した目の前の男から得られる答えはない。


「……何が目的?」


 真才は違和感に襲われながらも自滅帝に問う。


 おかしな話だ。自分しか知らない答えを自分へと訊いている。相手は何も知らない他人などではなく、最も知り得る自分自身だ。


 しかし、真才はその答えを知らない。知っているはずのもう片方の思考が目の前の男に取られている。


「俺の目的が何なのか、それを知るためにも指さないとな?」

「……そう」


 自滅帝から告げられる挑発。何を知るにもひとまずは従うしかないと、そう言いたげな顔で強気に迫る。


 そんな自滅帝の言葉を受け、真才は不機嫌そうな顔でソファへと腰を下ろした。


「……夢の中なのにこんなにも意識がハッキリしている。本当は寝ているつもりでいるだけなのか、あるいは──」

「もう既に意識は起きているのかもしれないな」


 先回りされる解答に、目の前の存在が同じ思考を持っているのだと改めて気づかされる。


「どうした? 指さないのか?」

「……」

「先手は譲るぞ?」


 自滅帝の言葉に、真才の目元が一瞬痙攣する。


 目の前に将棋盤があるのなら、対局を挑まれたのなら、誰であろうとどんな状況であろうと指すことを躊躇わない。むしろ自分から指しに行く。それが真才の基本的なスタンスである。


 だが、そんな真才が対局を始めない。


 理由は単純明快──。


「……何をした」


 真才は自滅帝を睨みつける。


 対局を挑まれ、始める前から初手を思考しようとした真才は、自分自身に驚いたような顔で感覚の無い手先で拳を作る。


 ──『初手』が、分からない。


 覚えているはずの棋譜が大きく欠けている。思考する脳だけはハッキリとしているが、知っているはずの手順に靄がかかってしまい、その手を口に出せない。


 ──もし記憶喪失になったのなら、きっとこういう感覚なのだろう。


「そんな怖い顔をするなよ」


 嘲るように作り笑みを零す自滅帝は、それを初めから知っていたかのように告げる。


「別に何もしてないさ。お前は"渡辺真才"で俺は"自滅帝"。ただそれだけの話だ」


 真才は意味が分からずに顔をしかめる。


 一体何を根拠に言っているのか。自滅帝は真才の思考の一部である。切り替えることはあっても、思考自体が完全に切り離されているわけではない。


 なのに、どうやっても手が分からない。


 ──もし、目の前にいる男がその大半を持っていってしまっているとしたら。


「…………いや」


 真才は暫し考え込み"何か"に気付く。


 ──"手が分からない"。それは厳密には違う。


「どうした? 諦めたか? まあ、それも渡辺真才がする選択だというのなら正解なんだろうな」


 何もかも見通すその眼と態度で言ってくる自滅帝に、真才は視線を落とす。


 視線を落として──呟いた。


「……なんでアンタが持ってる」

「は?」


 それは、確かな怒りだった。


 相手は自滅帝。ネット将棋で渡辺真才という矮小な存在を頂点までのし上げた、限りなく洗練された思考体である。


 その強さは真才が誰よりも理解している。理解し、積み上げ、そして崩してきたことだってある。


 それは限りなく小さな"取り柄"だ。何度も夢見て、後悔から逃げ続けて、襲い来る現実に目を背けながらも進むことをやめなかった、かつての少年が見上げた1つの星である。


 それを失ってなお立ち上がることなど、今の真才に出来はしない。言葉にするよりも先に心の内から爆ぜてしまう感情に、背を向けて歩き出すことなどできるはずもない。


 ただ手元にないそれを奪い返すのは……ああ、言ってしまえば必然である。







 ──『自滅流それ』は俺のものだ、と告げた瞬間から。





「──!」 


 顔を上げた真才は赤い眼光を灯し、自滅帝を戦慄の大穴に叩き落とす。


「聞こえなかったか? ▲6八玉だ」


 真才の口から放たれた棋譜に呼応して、その手に対応するかのようにテーブルに埋まっていた盤面の駒が動く。


 その異質な初手は欠けているはずの『自滅流』の本譜じょうせきである。


「……フッ」


 しかし、そこで怖気づく自滅帝ではない。


 やっとやる気になったかと、自滅帝は狂人のような笑みを浮かべて真才の手に追躡ついじょうする。


「△4二玉」

「▲5六歩」

「△6二銀」

「▲4八銀」

「△3四歩」

「▲5七銀」

「△4四歩」

「▲6六歩」


 自滅帝が言い返せば真才もまた言い返す。


 それも両者の内容は異常、常識を疑うような手順である。


 もはや定跡など知ったことではない、完成されつつある『自滅流』の本領が互いの口から放たれる。


「──指せるじゃないか」

「アンタから奪ってな──!」


 他の者が見たら卒倒するような手順を繰り広げながらも、二人の形勢はおかしいことに全くの『互角』で進行する。


 こうして果てなき夢の戦い。──真才と自滅帝による頂上決戦が幕を開ける。


「……チッ」


 ノータイムによる攻防の最中、先にリードしたのは先手を得た真才──などではなく、後手の自滅帝である。


 真才は珍しく舌打ちをする。手を指すごとにどんどんと強くなっていく自分、手を指すごとにどんどんと弱くなっていく自滅帝。


 その差を痛感してなお、真才は自滅帝の手に翻弄される。


「踏み込みが足りない、そんなんで俺に勝てるのか?」

「なんで手を指すごとに記憶が……!」

「再現性を実践してるんだ、手を指せば思い出していくのも道理──」


 直後、自滅帝の笑みにヒビが入る。──が、自滅帝はそれを振りほどくように真才の読みを上回る手を指す。


「くっ……」


 まるで獅子の躍動。何もかもが優位の中、真才は空中楼閣を築く前にその舞台を根底から破壊されてしまう。


 鏡写しのように互換性のあるその指し手は、真才がこれまで相対してきた敵の中で間違いなく最強の部類である。


 脳内将棋など比ではない。真才しか扱えない自滅流それを幾度も繰り出し続ける自滅帝に、真才は夢の中でありながら疲労のようなものを感じつつあった。


「甘いな真才、それで自滅流を指しこなしたつもりか?」

「対自滅流は想定していない……!」

「戦術は個人しか流用できない特権だからか?」

「っ……!」


 真才の中で欠けてしまった記憶。それをわざわざ補強するかのように告げる自滅帝の言葉は、絶対的な説得力としてその心に刻みつけていく。


 自慢でも何でもなく、目の前の男は真才が思う以上に強かった。


「かつて玖水棋士竜人が言っていたな。『唯一は棋士の定跡』と。だがその言葉は所詮、英雄が口にしただけの夢物語だ。現にそれを成せた者はただの一人も現れなかった」


 それは人が人である以上、絶対に越えられない壁というものである。


 長い年月の中で極稀に産まれた天才がその手を伸ばした結果近づけた真理。その他遍く凡人には関係のない話。


 自滅帝は、真才がその道には決して歩めないと断言する。


「結局のところ、彼の言葉は千差万別な人の思考をいかにも壮大に比喩しただけに過ぎない。──つまりだ、例え完璧でなくとも、ある程度思考を寄せることができるのならお前の"戦術"は『唯一』じゃねえ!」


 大局観を広げ、先を読み、俯瞰してメタ思考を灯し、可能な限りの策を講じる真才の手が一瞬にして砕け散る。


 同じ強さの中で生まれる大差。その源は自滅帝の覚悟の表れか、それとも幻の中だからなのか。


 真才はそんな自滅帝の手を凌ぐだけで手一杯になり、あっという間に主導権を奪われてしまう。


「自惚れるなよ渡辺真才」

「戦術はひとつだ……」

「違うな。それを唯一証明できるのは玖水棋士竜人の『横歩取り』だけだ」


 玖水棋士竜人が英雄と呼ばれた原点の将棋──竜の横歩。


 先手必勝、後手千日手。評価値数十点の差に勝敗の印を押される、まさにAI全盛期と呼ばれる時期にそれは起きた。


 角換わりや相掛かりが主流となる順位戦の中、昔を懐かしむように生まれた横歩取りの将棋にて、その男は伝説を残す。


 神の一手。異次元の指し手。AI越え。そんなよくある煽り文句を一蹴するかのように指された一連の手順は、その対局を見ていた者の度肝を抜くものだった。


 "本物"を見た時、人はそれを形容することができなくなってしまうのだろう。


 玖水棋士竜人の指した戦法。即ち竜の横歩とだけ名を残され、彼の畏怖は一部の者達にのみ知れ渡ることとなった。


 ──その後、大勢の天才達がその足跡をたどるように彼の『戦■やりかた』を真似ようとしたが、誰一人として自らの"定跡"を作ることはできなかった。


 そうして死屍累々となって残された痕跡の欠片を拾ったのが、第二世代の英雄と呼ばれる少年少女たちである。


 ……そんな彼ら彼女らもまた、各々の道へと進みだした。


 革命児は巣を飛び立ち、残された第三世代は玖水棋士竜人のような哲学的な将棋を否定し始めた。


 そう、天竜一輝やメアリー・シャロンのようにAIを参考に指す『最善の将棋』である。


 どんなに盤上を支配する手だろうと、どんなに異質に塗れた手だろうと、最善の名のもとに降す鉄槌には敵わない。


 神に最も近しい思考、そう呼ばれる機械の存在に身を委ねて紡ぐ一手は、現代将棋のパワーバランスを大きく傾かせた。


 人は迎合する生き物である。これまでの定跡も過去にされ、新しい時代がやってくる。


 玖水棋士竜人の伝説もひとつの思い出として昇華されていくのだろう。


「お前はこの荒波の時代で古びた英雄の背を追うのか、それとも新たな時代に迎合していくのか。どっちだ?」


 自滅帝の問いに、真才は作戦負けしている盤面を見てスッと目を閉じる。


 物語の主人公であれば、そのどちらでもない。と、かっこよく返事をするのだろう。


 真才はそうではない。


「……英雄の背を追うことになるね」

「その道は既に第二世代の天才達が追っている。それに、失敗が確約された道だ」

「それは大した問題じゃない」

「なに?」


 目を開け、脳内で紡いだ一手が目の前の盤上に反映されていることを確認した真才は自滅帝へと視線を向ける。


「俺は俺自身の道を歩む。それがたまたま彼の道と重なるだけで、きっと道中もゴールも別物になる。──左右じゃない、上下だよ」


 真才にとって、その選択は大きな事柄ではない。


 その背を追い、最終的に同じ場所に行きつくだけで、そこに至るまでの目的も理念も彼らとは全く違う。目標などという確固たる信念があるわけでもない。


 何故なら、玖水棋士竜人の『竜の横歩』と渡辺真才の『自滅流』は本質的に全くの別物なのだ。


 それが、玖水棋士竜人の言う『唯一』に括られるのだとしても、その場所から見る景色は玖水棋士竜人の見た景色とは必ず異なるはずである。


 だから、真才はその誰もが理想とする"誰も成し得ない極致"へと挑戦することをやめたのだ。


「あぁ……そうだった、段々と思い出してきた」


 泡沫に抱擁される感覚に身を浸りながら、真才は余裕を持ち直す。


 深層心理で忘れていた。──その答えを決めるために、半ば瞑想状態で没頭していたことを。


 そして没頭しすぎるあまり、意識が遠のき気絶するように眠ってしまっていたことを。


「なんだ、もう時間か」


 何かを察する自滅帝は、回帰しつつある真才に何らかの感情を見せる。


 真才はその感情を読み取ろうと自滅帝を見るが、靄がかかってよく見えない。


 だが、これから何が起ころうとしているのかはもう分かり切っていた。


「……結局、自分自身ってそう簡単に変わるもんじゃないのか」

「……」


 ──それは、いつ頃からだったか。


 地区大会までは確かに切り替えていた。スイッチのオンオフのように、意識を深く落として感覚を呼び覚ませば、慣れ親しんだ読みの盤面が脳内に広がるように。


 しかし、気付けばその行為は段々と意味を為さなくなり、果たして切り替えているのかいないのかの境界も曖昧になっていた。


 ──本来はそれが正常な状態である。


 自滅帝の思考というのは、端末の画面に向かって将棋戦争をプレイするいつもの真才の実力のことであり、常日頃からその力を引き出せないのは一種の足枷のようなもの。


 長い間、相手と盤を挟んで指すことがなかったせいでその差は歴然となっていた。


 それに気づいたのが、将棋部に入部したての頃に指した多面指しの時である。


 慣れない現実の盤上に慣れない多面指し。重なるように不利を押し付けられた真才は、自分の力を全く引き出せていないことを理解した。


 その際に無理やりにでも感覚を引っ張りだし、自分を取り戻そうとしたのが自滅帝の思考である。


 本来であれば徐々に浸透させていくべき感覚の差異だったが、それを無理やり引っ張り出したことで一時的に分離したような状態になってしまった。


 しかし、その状態も長く続いたわけではない。


 地区大会ではそれが顕著に表れていたが、現実での対局をこなしていく事に二つの大きな隔たりは薄れ始め、真才は強く意識せずとも自滅帝の思考に似た感性を持ち始めるようになっていた。


 これが『慣れ』というものなのだろう。


「だが、意識するとどうしても重ならない。あと一歩の同調がズレる。だからお前は深層にある俺の思考を奪うことで完成させようとした」


 眠りに着く直前。人の意思が最も弱くなるその状態で、真才は自滅帝の思考を自身に重ね合わせるように脳内将棋を始めた。


 完全に混ざり切るまで、蟲毒となった鳥籠の中を何度でもかき回す。


 空の器に感性を奪わせ、それを浴びるように飲み干せば良い。


「……だから、お前を倒せと」


 真才はようやくその目的を思い出した。


「そうだ。今のお前の棋力じゃ絶対に俺は倒せない。だから俺を奪え、自滅帝の思考を、読みを、癖を、策を、その何もかもを俺から奪って殺して勝って見せろ」


 自滅帝は死へと突貫するように、両手を広げて真才を見下ろす。


「──分かった」


 真才は躊躇わなかった。


 遠来する嬉々の感情。この瞬間、夢の中でしか味わえない自分との一戦。


 それがただの幻覚で終わるのなら一興。意味のある戦いなら一石二鳥。ひいてはこの対局自体に価値を求めること自体が愚問である。


 ──完成されつつある『自滅流』を、二人ひとりで築く。


 果ての読み、あの青薔薇赤利をも翻弄した入玉戦が自滅帝から放たれる。


 それは容赦なき手順である。


「▲7八玉」

「ダウト。▲7八金△6六香▲5七玉△4五桂▲5八玉△4六角▲同飛△3七銀の手順を嫌って躱したのが丸見えだぞ?」

「なら△4六角と指せばいい」

「ああ、指すさ」

「▲8七歩△7六飛▲7七歩△5六飛▲1七歩△同玉▲4六飛で先手が勝つ」

「何言ってる? その順じゃ△3七銀は防げていない」

「▲3九角がある」

「△1八玉で余してる」

「それで△6六桂から飛車切って王手の順に▲5七角を合わせるための▲3九角だ」

「その緩手で入玉が確定するぞ」

「それでも詰ます」


 手の内が全て明かされた状態で戦う両者。普段の倍の速度で読みが加速し、視界に映る靄が赤黒いノイズに変わるほどの激しさが舞うも、二人はそれを一切無視して対局を続行する。


 自滅流を荒業のように使って入玉を果たす自滅帝、それを絶無指しで襲い掛かる真才。


 もはや一切のブレーキが利かない。


「△1九玉。諦めろ真才、もう詰まない。後は桜が咲くだけだ」

「枯れた楼閣だ、折ってやる」

「中段玉にすら至っていないそんな低空飛行でか? 容易く斬れるな」

「斬ったそばから動く」

「なら動けないほど微塵バラバラに斬る」


 硝子の破片が割れんばかりに弾け飛び、放射状に走駆した稲妻が白の世界を色づかせる。止まることのない思考の連なりを前に、真才はもう自滅帝を見ることすらしていない。


 赤いノイズが視界を覆う、瞬きをしてもそれは消えない。


 刹那、真才が勝負を決めに掛かる。


「絶無か!」

「あと3手で終わる──!」


 それは王様ではなく、金だった。


 中盤から終盤、大空へ羽ばたこうとしていた真才の耀龍を見事に封じ込められ、自滅帝の入玉は先行する形となっていた。


 実質的な駒落ちとも言えるほど真才の角の働きは死んでおり、駒の効率は最悪となる。


 ──そんな中で真才の自陣を駆け抜けたのが、まさかの金将である。


「絶無を為すには安い宝玉だな──!」

「そっちから空に落ちてきたんだ、下に進むための足は要らない!」

「──はははっ!」


 段々と思考が自滅帝と一致し始めると、真才が指す自滅流の精度は格段に上がり始める。


 自滅流の入玉戦、それを仕留める手が同調する。


 真才の表情が、自滅帝と重なり始めた。


「あと1手──!」


 ここまで来ると、もはや将棋盤以外の全てが砂嵐に包まれる。


 余計なものが一切消え、高鳴る心音だけが聞こえてくる。


「読み抜けはないか──!」

「無い!」

「ならせ、そして戦■これを完成させてみせろ──!」


 まるで自分を投影する鏡写しのように、最後まで将棋を楽しもうとする自滅帝の笑みが靄の中から窺える。


 そんな、今にも陽炎となって消えてしまいそうな声に真才は応える。


 容赦のない、相手を根底から叩き折る一手を以て。


 穿ち、荒び、風穴をあけるような135手の熱戦の果て、乱舞するように最後の抵抗を見せていた自滅帝の手がついに止まる。


 ──思考が、完全に重なった。


「──して、──ず──束──を──……」

「ああ、分かってる」


 最後の最後、真才が自滅帝の思考の全てを読み取れるようになった段階で、目の前で指していたはずの男は跡形もなく消え去った。


 ……そこには、先程まで考えていた局面の全てが描かれている。


「……最後まで楽しそうに指しやがって」


 羨むように呟く真才。


 気付けば重い疲労感が全身を襲い始めている。


「はぁ……なんだか、疲れた……」


 そう言って真才は倒れるように身を委ねると、そのままゆっくりと意識を手放すのだった。









 ────ピピピピッ、ピピピピッ。


 聞き慣れない目覚まし音は、普段セットしない時計から木霊するように聞こえてくる。


 WTDT杯当日。いつの間にか寝てしまっていた真才は、寝ぼけた様子で手を伸ばし時計を止める。


 少しばかりの寝不足が響いたか、絶好調というには程遠い。


「ん……」


 それでも真才は何事もなかったかのようにベッドを降りると、背筋を伸ばしながら大きくあくびをする。


 その際、一瞬、ほんの一瞬だけ試すように自滅帝の思考を呼び出そうとするが、そもそもどういう感覚でその思考に切り替えていたのかすら思い出せなかった。


 既に重なった思考は、違和感のひとつもない。


「……顔洗ってこよっと」


 そう一言だけ呟くと、真才はいつもの様子で洗面所へと向かっていった。







 ──曰く、玖水棋士竜人が生前に残した著書にはこう書かれている。


 相手に対してどう戦っていくのか、その戦う術を考えるのが『戦法』。


 相手との戦いをどう制していくのか、その道筋を考えるのが『戦術』。


 そして、相手との戦いをどうまとめ上げ、どういう結末を創り上げるのか。そんな大局全体を考えるのが『戦略』である。


 最後のピースは、相手の取るべき行動を予測する。それは原理的に不可能であり、人である以上無駄な行為でしかない。


 その無駄を永劫、苦しむことなく続けられる者だけがたどり着くのだろう。


 ──自滅流は、極められたひとつの"戦法"であり、それを自在に操り勝利へと導く渡辺真才の戦い方は、極められたひとつの"戦術"である。


 それは、才能も取り柄も半端な状態だった男が、何気ない一歩を踏み出したことで少しずつ変化していったものである。


 人生を変える起点は何も特別な一手ではない。複合的な要素を少しずつ重ねていった先、突然変わってしまうものである。


 故にこの話は、そんな男が普段隠し続けている真実の1ページである。


 誰も何も知らない、渡辺真才だけが心のうちに留めておく夢の出来事である。


 この時点で、今日のWTDT杯がどうなるかなど誰も知らない。どういう過程を経て、どういう結末に向かっていくかなど、誰も知らない。


 ──当然である。未来を知らないからこそ、人は不確定の中に可能性を見出していくのだから。


「~♪」


 真才は鼻歌を歌いながらご機嫌に顔を洗う。


 そんな真才のいなくなった寝室には、大量の研究譜が散らばっていた。


 パソコンはつけっぱなし、勉強の本は付箋を貼り忘れたまま開かれており、何もかもが乱雑になっている。


 そして先程まで寝ていたベッドにも、その痕跡は残っていた。


 朝の光によって薄暗くなったスマホの画面、そこには小さな文字で。









 ──『疑似頓死戦略その1』と、そう書かれていた。



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