合宿などと銘打って、その正体は地獄への入口に過ぎなかった。
霜楓杯に集められた強豪、全国大会前に立ちはだかる最後の壁。そしてそれらを牛耳るかのように登場した不知火という男の本性。
「──うふふ、良い顔ねぇ♡」
不知火に言われるがまま席に着き、俺達はこの霜楓町の最初の洗礼を受けた。
白い帽子を被りギラついた獲物を睨みつける屈強な男、年相応とは思えない動きで素早く移動する老婆。
それらは数分の間もなく準備され、俺達はゴクリと唾を呑んで見つめる。
そして、次の瞬間には──もう病みつきになっていた。
「どうかしら、霜楓町の
不知火がそう言うと、反射的な反応でもするかのように真っ先に高木が手を上げた。
……熱々の焼きそばを頬張りながら。
「マジうめぇっす
もぐもぐと頬張る高木に続いて、葵と東城も同じように恍惚とした表情で料理を口に運んでいた。
そして、俺の隣にいる来崎はまたもやハムスターみたいになっている。
「……」
そう、俺達は今昼食をとっている。
今回の霜楓杯への目的が明かされた後、俺達は不知火に会場まで案内され、既に受け付けを済ませていた葵たちと合流した。
そして、そのまますぐに近くの飲食店で食事をすることになった。
場所は大きなテラスを囲った海の家のようなところ。出てくるメニューはどれも一級品、特に厨房で本格的な料理人の格好をしたシェフは、本場に負けず劣らずの腕前で完璧な料理を披露していた。
僅か数分の間で、コトッとテーブルに特大のかき氷とカレーライスが配膳される。
明らかに2人で運ぶレベルの大きさだが、老婆は慣れた手つきで両手にトレイを乗せ、とんでもないバランス感覚で次々に料理を運んでくる。
「見たことないくらいのジャンボかき氷っすーー!!」
「むっ! この容赦のない辛さはそこらでは中々お目に掛かれない代物であるな!」
「シラヌイの姐さん、アンタマジでサイコーだぜ!」
「あらぁ♪ そう言ってもらえると嬉しいわぁ♪」
それはもう、大好評だった。
あまりの美味さに激辛カレーを速攻で完食する武林先輩。そんな風に食事を頬張る俺達を、横からまるで親のようにカメラで撮り続ける鈴木会長。
それまでずっと警戒していた隼人は、呆れるような顔をしていた。
「なんだったんださっきの茶番は……」
パスタを食しながら裏切られたような顔をする隼人に、鈴木会長がカメラのシャッターを止める。
「言ったはずだよ、この合宿は心身の疲れを癒すことも目的のひとつだと。君達には明日の大会で全国大会前の最終調整をしてもらうんだ。余計なストレスは出来る限り省いてもらわないとね」
結局、今日と明日でやることは全国大会へ向けた調整にすぎない。本番はあくまで黄龍戦、ある程度肩の力を抜いて楽しまなければ意味がないのだ。
「不知火様、そこに突っ立ってられると邪魔です」
「あっ、ごめんなさ~い」
厨房の手伝いなのか、不知火の付き人も俺達のために料理を運んでくれていた。
「……アンタ、立場逆転してないか? さっきの自己紹介の時はそこの付き人のことミニィだとかなんとか言ってたじゃないか」
隼人がそう言うと、不知火は軽く手を振って否定する。
「や~ねぇ、ミニィはアタシが言ったんじゃないわ」
「はい、わたくしがその呼び方を気に入っているので、そう呼ぶよう不知火様に無理やり呼ばせているだけです」
どうやら立場が逆だったようだ。
「アンタそのなりで尻に敷かれてるのかよ……」
「だってアタシ、ミニィがいないと何もできないもの」
「はい、わたくしがいないとこの男野垂れ死にます」
「ひでぇ関係だ……」
しっ、しっ、とミニィに追い払われる不知火は流れるように俺の隣に座り、俺は見事にハムスターとオネェに挟まれた。
何でこっちに来るんだ。
「帝ちゃんは霜楓町のお料理、お口に合うかしらぁ?」
両肘を付け、頬杖しながらこちらをずっと凝視してくる不知火。
正直、俺はこの男と話したくない。嫌っているわけではないが、単純に苦手意識がある。
「……こっち向かないでください」
「冷たいわねぇ、まだ
周りに聞こえないよう、不知火は俺の耳元で囁く。
「別に怒ってないですよ。ただ……会うつもりはなかったので」
「アタシが舞台を用意したのが気に入らないのね?」
「あなたの舞台ってロクなこと起こりませんから」
「分かってるじゃな~い♪ 相思相愛ね♡」
「片思いです」
「盤上では違うじゃない♡」
「半分に亀裂が入ってるのが分かりませんか」
「なら残った1マスは愛の結晶ね♪」
「…………」
相も変わらず、ポジティブの塊のような都合のいい思考ばかりしている。
俺はこの男と多少なり因縁がある。……と言っても、会わなければ因縁に意味など無い。
過去に何があろうとも、それらは所詮"過去の出来事"だ。
顔も名前も覚える必要はない。現世にどれだけ遺恨が残ろうとも、死して墓に持っていけば無かったも同然。
次に会うのが死後の世界なら、この長ったらしい人生の道中でわざわざ思い出すこともない。
──そう思っていた矢先に、これだ。
この男を見ると思い出したくもない過去を思い出してしまう。上手くいっている今がどれだけ奇跡の上に成り立っているのかを自覚させられるような、そんな不安に塗れた過去の思い出だ。
あの時から歯車が崩れていったと思うと、今の状況に合致して余計な推論ばかりが頭の中を埋め尽くす。
……どうせ2日程度の滞在。この男が何をしようと、今の俺には関係のないことだ。
俺はため息をつきながら席を立つ。
「あら、おしっこ?」
「散策です」
「お花摘みね?」
「散策ですって」
全然話を聞かない不知火を振りほどくようにその場を離れ、俺は会場の方へと歩いていった。
「東城先輩、行ってあげてください」
「来崎……?」
「狩人に首を狩られても知りませんよ」
「……!」
※
海辺から少し上がった先、大会の受け付け会場が見えてくる。
そこは今も賑わいを見せており、多くの参加者や観光客が混じって将棋にまつわる様々なイベントを行っていた。
「……」
本当はその中に用事があったのだが、俺は直前でその会場に背を向けた。
人混みが苦手なのもそうだが、あれだけ集まっている中で探してもきっと見つからない。
……別に人探しをしているわけじゃないのだが、どうしても気になる。
見られ続けている側に立っているのが少しばかり癪だから、こちらもあたりくらいは付けておこうと、そんな軽い考えだ。
まだ、視認できていない。
俺はさっき、"それ"を背中ではなく前方に感じた。
「暑いと思ってたけど、日陰は思ったより涼しいな……」
草木の揺れる音色を聞きながら、或いは背を押す涼しい風に流されながら、俺は霜楓町を適当に歩く。
武林先輩には食後から自由時間を貰っている。このあと夜食を控えていることもあって、俺は見ての通り早めに食事を切り上げた。
これからの予定は……特に決まっていない。身体的な疲労は溜まっていないが、誰かと対局をしてしまうと明日の大会に響いてしまうため遠慮している。
今朝から100件くらい来崎からの対局の申し込み通知が届いてるが、それも全部無視している。この一週間散々裏でやり合ったのに……まだ物足りない様子だ。
緑と青に挟まれたアスファルトの上を歩きながら、俺は明日の対局構想を考える。
強者はいっぱいいる、そこから学べるものもきっと多い。
……ただ、俺にとっての壁はやはり自滅狩りだ。
いや、壁なんてのは都合のいい解釈なんだろう。本当は、ただ自分を脅かす強敵と戦いたいだけだ。
楽しみだなぁ……どんな研究をしてきたんだろうか。あの局面か、それともあの局面か、きっとどこかで新しい分岐を見つけてきたはずだ。
そう考えるだけで胸が躍る──。
「いいわね、有名人で」
電柱の配電線に止まっていた鳥たちが一斉に森の方へと飛んでいく。
先程まで聞こえていた草木の揺れる音が突然消え去り、俺は顔を上げてアスファルトの頭上に立ち上る陽炎へと目を移す。
──遊糸の中に沿うように立っていたのは、俺と同い年くらいの少女だった。
「……!」
やつれた目元に怒りに染まった瞳、頬に貼ってある絆創膏の周りには何度も同じように貼り付けたような跡がある。
見覚えのない顔だった、ほんの一瞬は。
だが、その鼻で笑うような表情が脳裏にこびりついていた不快な記憶を呼び覚ました。そして、気づいたときには、名前まで思い出していた。
──
「なんとか言ったら? それとも、アタシなんか記憶にも残ってないんだ?」
向けられる視線に思わず顔が強張る。
会いたくもない人間というのは、こうも過去に集約されているものなのか。それとも、清算せずに目を背け続けてきた罰なのか。
「……」
「相変わらず言葉が出ない時は黙るんだ、ダッサ……」
小笠原は貶すような態度で嘲笑する。
出会って数秒、酷い物言いだ。
「……俺に何の用?」
「は? 何その態度、アンタ自分が何したか覚えてないの?」
鼻で笑うような乾いた笑い声を交えて小笠原が睨む。
決して剥き出しになっているわけではない感情が、
だが、何をしたか。という問いには回答を持っていない。せいぜい天王寺道場を閑古鳥の鳴く場所にしてしまったことくらいだ。
だけど、意図してやったわけじゃない。強くなることを願い、願われたから、自分にできる全力で将棋を指してきただけだ。
それが情け容赦のない全力であったとしても、きっと過去の俺は何度繰り返しても同じことを続けていたに違いない。
「
「……」
「先生の試験は奨励会と同じで年齢規定があった。たった1枚、女流になるための近道にそれが必要だった。美優にとってはそれが最後の試験だったのに、アンタはそれを知ってて潰したんだよ」
天王寺道場の内部試験。将棋界において非公式ながら、天王寺玄水の推薦という異質すぎる免状。──当時、女性棋士の誕生に力を入れていた玄水の副産物として、それはあまりにも価値が高かった。
一介の道場で手に入るには身近すぎて、実際に手に入れるにはあまりに遠すぎる。
そんな──たった一枚の書状を賭けた、小さくも大きい試験だった。
何度対局を重ねたのか、覚えていない。大勢の門下生による総当たり戦は軽く30を越えていた気がする。
そして、その最終局、俺は対局相手として一人の少女──
誰よりも真剣に。
誰よりも冷酷に。
「アンタは男なのに……自分が勝ちたいがために、アタシたちを殺したんだよ」
それは、女流棋士、ひいては女性プロ棋士の道へと進むために用意された、女性のための戦いだった。
男である俺が参加できたのは、玄水の目指している場所が女流棋士ではなく、女性のプロ棋士誕生だからだ。男性も倒す実力がなければ意味がない。
だから、俺は遠慮などせずに戦った。戦っていいと、当時はそう思っていた。
結果、一番になってしまった俺が間接的に彼女達の人生の切符を剥がしたというのなら、そうなんだろう。
「アンタはそれを使いもしないで、何年も引きこもって将棋から逃げて。それで何? 可愛い女の子に囲まれたからやる気でも出したの? それで大会にも出る気になったわけ? キモいんだよ、将棋しかできないくせに」
言葉の刃が、皮膚を裂くよりも深く突き刺さる。
その言い方は心が痛い。
俺は将棋に対して全力の熱を注いできた。だから、それ以外の全てで怠ってきた多くの物事については何も言い返せない。
昔からだ、昔から将棋しかできなかった。しかも、その上で大成できなかったから、今も夢見た世界に届けずにいる。この中途半端な取り柄と才能、縄の下で泣き続けてきた弱虫に多才を求めるのは無理がある。
だから、絶望に慣れていない者には分からないだろう。
「また黙って、ホント根暗。そんなのでよくあんな可愛い子たちに話しかけられてるよね。もしかしてアンタのとこの女子って目が節穴なの? それともレンタル的な?」
そこまで言って、小笠原は肩を震わせるようにして笑った。
東城たちをバカにしても、俺の逆鱗には触れない。それは東城たちを通じて間接的に俺をバカにしているだけだからだ。
だが、その笑い声を耳の奥で反響させながらも、俺は表情一つ動かさなかった。
ただ、暫く黙っていた口を開いて小笠原に尋ねた。
「……それで、結局何の話?」
小笠原はひとしきり笑い終えると、嘲るようにして腰に手を付ける。
「本題に入る前に、美優に何か言うべきことがあるんじゃない? アタシが代わりに伝えといてあげるからさ、謝罪のひとつでも言ったらどう?」
「……」
「──謝れよ、黙ってないでさ」
挑発する言葉とは対照的に、口元だけに力が籠る。語尾は震え、見開かれた瞳には小粒の涙が浮かんでいる。
風が吹いた。
強く、潮の匂いを含んだ、霜楓町の風だった。
──俺は将棋しかできないが、将棋だけはできる。
そんな将棋しかできない奴に将棋で挑んで、その結果に不満があるのなら、そもそも初めから将棋で挑まなければいい話なんじゃないのか。
確かに勝負の世界は残酷だ。否が応でも勝敗の結果で人生が左右される。それはどんなに小さな対局の場であろうと、必ず訪れる結末でもある。
俺だって、負けたことによる後悔は何度もした。相手を恨んだこともあったし、自分を恨んだこともあった。負けられない、背に腹は代えられない、諦めなければならない、したくもない経験を何度もしてきた。
だから、その全てを乗り越えたこの中途半端な自分こそ、今を通して見る渡辺真才なのだと信じている。
それが情熱であり、関心であり、好きである。俺は将棋が好きだから、将棋でどれだけ嫌な思い出があっても、こうして好きであり続けてきた。
悲劇のヒロインぶっている小笠原に、俺は内心で首をかしげる。
──言い忘れていたが、小笠原の友人である小鳥遊美優は昔、父親の形見だった手作りの将棋の駒を池に落として遊んでいたことがある。
その当時の俺は、心の底から怒ることができなかった。ただその怒りを、将棋が強くなることだけに注いで来てしまっていた。
小笠原は、そんな彼女とよくつるんで俺をいじめていた。子供によくある、笑って全てを済ませるような軽くも重くもないいじめだ。
あの頃の俺は、彼女たちに同調して気持ちの悪い顔で笑っていた気がする。
自分がやられているのに。
「……はぁ」
俺はほんの少しだけ影を落として、ため息を零した。
「なに? 聞こえないんだけど? 言いたいことあるならもっと声出しなよ、陰キャくん」
いつかを思い出す、あの頃と同じようなクスクスとした嗤い声。先程の憎しみが込められた涙声から一転、神経を逆撫でするような声色で小笠原が煽ってくる。
まるで、俺の情けない反応と言葉を聞きたいとでも言わんばかりだ。
……だが、そもそも俺は彼女達の人生に興味はない。わざわざ声をかけて貰ったところ大変申し訳ないが、俺にとっての過去は、言葉通り過ぎ去ったものでしかない。
どれもこれも、もう手から落ちた後なんだ。
だから小笠原、俺はお前を何も知らない。
「ねえ、ちょっと、聞いてんの──」
俺は小笠原の言葉を遮り、他人を見るような目で告げた。
「ごめん。そもそも君、誰?」
「……なんですって?」