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第二百三話 汝、狩人か? ③

 霜楓町に流れる塩気の混じった涼やかな風が、ガードレールに腰掛ける桜坂明日香の肌を撫でた。


「……」


 頬を叩くほどに靡く髪を気にも留めず、明日香の視線は一行を見下ろす。


 その視線の先に居たのは、かつての憧れであり、もう焦がれることは許されない存在。


 その一行は──"彼"は、霜楓杯に出場しようとしていた。



 >自滅帝霜楓杯参加するって本当ですか?

 > CS杯優勝候補キター!!

 > 【速報】自滅帝、将棋戦争のチャンピオンシップ杯予選参加済み

 > 霜楓杯絶対見に行きます!応援してます!

 > 見に行きたいけどちょっと遠いなぁ

 > 全国大会前に何回大会でるんですかwww

 > 世界大会勝利した後の地域予選って……落差凄すぎやろ

 > まって!自滅帝参加するってことはライカちゃんもいる?

  >いると思う

  >いそう

  >多分いるよ

  >ワンチャンいるんじゃない?

  >よこしまなこと考えるなよ

  >ライカちゃん出るなら行くわ

  >トップランカー2人も参加する予選ってなんだよ

 > 自滅帝また暴れるのか

 > この前の世界大会から1週間でこれはヤバいっすよ

 > 暴れないと気が済まないのか

 > 今までネット将棋の檻に閉じ込めてた猛獣が外に出たらこれだよ



 全く関係のない、自滅帝の日常の呟きにそんなコメントが大量につく。


 身近な存在であるアマチュアという点がより大きな反響を呼び、小さな枠ながらその激震は確かに始まっている。


 まだ水面が揺れていないだけ。明日香は自分の感情に整理がつかないまま、ただその胸に渦巻く衝動だけを身に任せる。


 自滅帝を推す者として、彼がSNSを始めてから常に動向をチェックしていた。


 叶うなら、その戦う姿をこの目で見たいとすら思っていた。


 自分がどれだけの罪を犯したのかすら自覚せずに、その名誉に傷をつけ、夢を馳せるはずの彼のレールに石を投げつけてしまった。


「……っ」


 晴れやかな青空の元、明日香は自らの顔に影を落とし、固く閉じられ小さく歪む口元だけが映っている。


 自滅帝の動向を追うのは、昔ながらの習慣だった。


 稀に本人が現れるという自滅帝の掲示板に張り付き、将棋戦争で対戦が始まれば観戦しに行く。


 そこで魅せる固定概念を覆すような圧倒的なまでの戦い方は、明日香の心をいつも激しく打ち付けていた。


 ただ一言、この瞬間に漏れる言葉は後悔だけで──。


「…………なんで、"参加"しちゃったんだろ」


 ※


 狩人を常識で語るなど愚かなこと。探さずとも向こうからやってくる、あるいは探すこと自体が無意味。


 哲郎以外は全員、驚いた表情でその『男』を見た。


「あんらぁ! お友達もたくさん連れて絶好調ね、みかどちゃん♪」


 先程の鬼姫にも劣らぬほどの、ひどく個性的な容姿でその男は現れる。耳にいくつものピアスを付け、片目に義眼のようなものが入っており、顔に多少の化粧跡があること以外は、ガタイの良い屈強な男性と思うのが第一印象。


 問題は続く第二印象で、その男は真才に対しまるで知人にでも会うかのような態度で接している、というのが違和感だった。


「……どなたですか」


 開幕名前を呼ばれた真才は、内心で驚きつつも冷静に返す。


「ああっ、アタシったら失礼なことを! そうよね、お互い初対面だもの、挨拶は大事よね。──紹介するわ・・・・・


 そういうと、男は自身ではなくその大きなガタイに隠れていた背の小さな女性を前に出す。


 女性は夏場に似つかわしくない就活生のようなスーツ姿をしており、手にはタブレットを抱えていた。


「彼女はアタシの付き人の"ミニィ"よ、ちっちゃいから分かりやすいわよね」


 そう紹介する女性は、明らかに日本人である。一瞬愛称だろうか? と思う隼人たちだが、女性は頭を下げて自己紹介をした。


「初めまして、付き人の加奈かなと申します」


 思いっきり日本人である。


「いいえ、アナタは今日からミニィよ。そう生きなさい」

「……かしこまりました、わたくしのことはミニィとお呼びください」


 女性は再び頭を下げ、自分をミニィと名乗る。


 その瞳に感情はない。


 僅かなやりとりで、その男が"ヤバい奴"であるということだけはその場にいる全員が理解する。


「それで、結局アンタはどこの誰で、うちの部員に何の用なんだ?」


 隼人が前に出て真才をかばうように立つ。


 しかし、男は投げられた会話のボールをキャッチしなかった。


「今日は帝ちゃんのために満足できる舞台を用意したわ! ステージが小さいのがたまにキズだけど、きっと世界より・・・・楽しめる舞台になるはずよ♪」

「おい」


 困惑する隼人を差し置いて、男はピエロのように自分の世界を展開する。


「どうかしら? 不満はある? 答えてよ帝ちゃーん♪」

「……」

「あんらぁ、今日は電源オフなのかしら? もう指針・・がそこまで迫っているのにのんきなものねぇ」


 男のその言葉に真才は目を見開く。


 同時に、間から来崎が割って入ってきた。


「本当に何を言っているのか分かりません。先程から馴れ馴れしく話しかけていますけど、貴方は真才先輩とどういうご関係ですか?」


 来崎にそう詰められると、男はふーんと見定めるようなまなざしを送った。


「取り柄は探すものではなく作るものよ」

「……!」


 驚く来崎を尻目に、今度は勉の方を見る。


「後ろから俯瞰すればすべてが見えるわけじゃない」


 勉の頬がわずかにヒクついた。


「決断に甘えているのもそうだし」


 東城の顔色が一変する。


「兄に任せていれば弟の自分は何もしなくてもいいと思っている」

「お前……っ!」


 全員、看破されたような顔で男を見上げる。


 男は最後に真才の方へと目を向け──。


「……全部壊すつもりね?」


 不穏な一言を告げた。


 額に汗を滲ませる真才と、男の言葉に絶句したままの部員たち。すると、男は両手を広げて僅かに下がり、会場へと目が移るよう誘導した。


「"紹介"するわっ! さっきアナタと出会ったのが鬼姫、名取美遥ちゃん。そして、あっちで退屈そうにあくびをしているおじいちゃんが、ちょうど5年前の将棋戦争でトップランカーだった霧島きりしまアマ八段。その後ろでたむろって遊んでいる学生四人は将棋戦争の団体チーム戦で日本一位になったチームのメンバーよ。あっちの端でアナタのとこの部員と言い争っている子は去年の小学生名人、涼太りょうたくんね。会場の入り口でスマホをいじっている彼は元奨励会員で、今は公式大会出禁中の和田わだ元竜王。他にも普段表に出ないような強豪をたくさん揃えているわ♪」


 まるで自分が招いたとでも言わんばかりに、男は恍惚とした表情で真才たちの前に立つ。


 緊張が走る。指先が攣縮する。かすかに響く波音のリズムに交じって、耳の奥で何かがうごめく。


 驚きを通り過ぎた気持ち悪さの塊のようなものが、この場違いなほど喧騒に溢れた霜楓町の会場で──いや、この"檻"のような異空間で、自分達を秤に掛ける。


「……鈴木会長」


 睨むように声を放ったのは、勉だった。


 その眼には賛嘆などではなく、警戒と畏怖の色を孕んでいる。


「おい、まさか……」

「嘘でしょ……?」

「……そういう、ことですか」


 隼人、東城、来崎が後ろを振り向く。


 この面子、この状況、今日自分達がこの合宿に集められた理由──。


「君達は私の目から見ても非常に優秀な子たちだ。合宿などと銘打っても、きっと君達は課題をこなしてしまうだろう」


 それは以前と比べて強くなったから。自分達の想像を超えて、第三者の哲郎から見ても大きく予想を超えて、遥かに強くなったから。


「でもね、それは少し困るんだよ。大きな舞台で勝利することはもちろんいいことだけど、勝ち続けた先でいつか起こる敗北は、君達に大きな負担を残して勝手に去っていくものだからね」


 哲郎が何を言いたいのか、来崎はおおよそ理解する。


「……私達を、信じていないんですか」

「信じているよ。だが、信じることと実際に起こり得ることは別問題だ」

「……」


 ここから先は、休憩地点がない。ゴールしかない。


 全国大会優勝。それ以外はすべて敗北に繋がる。


 可能性としてもっとも現実的なライン、それは運さえ味方して奇跡が起こった末の完全勝利よりも、敗北した後にどれだけ素早く立ち上がれるかの話に重きを置かなければならない。


 哲郎は指導者として、頂点に挑むよりも先に、できる限り高い壁があることを真才たちに見せなくてはならなかった。


「……なるほど、それでこのオールスターか」

「そうよぉ♪」


 未だ名乗らない男は再び両手を広げ、今度は羽ばたくように自身へと注目させる。


 これほどの強豪揃いの面子──まるで招いたかのように、ではない。実際に招いたのだ。


 この男が、この"怪物"が──。


「──改めまして、ようこそ霜楓杯アタシの舞台へ♪ 気の狂うような挫折も、天に昇るような成長も、全てアタシが責任を持って導いてあげるわ♡ みんな降り注ぐ夏の霜を経験して、何よりも美しい紅の葉へと変わっていって頂戴♪」


 男はそれまで存在感を殺していた真才に迫り、屈託のない笑顔でこう問いかける。


「どう? 少しは"やる気"になったかしら? それともまだ足りない? プロ棋士でも呼んだ方が良かったかしら?」


 アリスターを越えるほどの高身長に迫られた真才は、その首を上に向けていつもの雰囲気で告げる。


「……そうですね、こんな舞台をわざわざありがとうございます。不知火しらぬいさん」

「そうそう♪ それでいいのよ、帝ちゃん♡」


 男は真才に看破されることをまるで望んでいたかのように、心から喜んでいた。


 ※


 一枚の葉が風に乗って飛んでいく。そんな過疎と隣り合わせになっている風景を想像していた天馬は、夏祭りのように賑わっている霜楓町を見て絶句する。


 否、絶句したのはスマホの画面を見てからである。


「はっ……?」


 自分が主役、自分が優勝候補。そう思っていた天馬は、この日初めて将棋戦争の霜楓杯エントリー一覧を見て目を飛び出させる。


 ずらりと並ぶ参加者、50人弱。その全てが有段者であり、半数以上が高段者。


 ……それどころではない。


 かつてネット将棋界最強の座に君臨し続けた霧島八段を筆頭に、今も裏の舞台で活躍し続けているトッププレイヤーが何人も参加している。


 トドメには現ネット将棋界最強と謳われる自滅帝に、その怪物を一番多く打ち破っている自滅狩り、さらには天馬がライバル視していた前回チャンピオンシップ杯の優勝者であるライカまで参加していた。


「は……? は……? は…………? …………は…………」


 消え入りそうな音と息だけが一定の感覚で漏れ続け、天馬はその場に膝をつく。


 ゴツン、と骨に響くアスファルトの痛みさえ気にも留めないほどの衝撃が脳裏を刺激し続け、やがて天馬は虚空に向かって叫んだ、叫ぶしかなかった。


「……な、なんだよこれ──っ!!」



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