午を三して休を生む
ニャァァァ――ニャァァァァ――
雷の音にも関わらず、微かに聞こえた猫のような声。これは産声に違いない。そして、母屋に挙がるどよめいた声。おそらく安堵の声に違いない。続いて、ドタドタドタという足音が近づいてきた。
「与兵衛! 与兵衛よ! 男子や、男子が生まれたで!」
晴れやかな与右衛門の声が廊下の向こうから聞こえる。与兵衛は、願いがかなったことを知って、思わず柏手を打った。その手に茶垸を持っていたことなど、すっかり失念して。天目がこぼしに中る。
ガチャン!
バンッ!
甲高い音がして、それと同時に障子が開いた。そこには喜色を浮かべる与兵衛の姿の脇に、欠けて転がる青瓷茶垸があった。与右衛門は啞然とする。
「与兵衛……」
与右衛門の声に、我に返った与兵衛は、与右衛門の視線の先を辿る。そこには、唐銅のこぼしにあたって口造りが缺け、ニュウの入った茶垸があった。
「それは先日、おぬしが宗匠から譲って頂いた茶垸であろう?」
「はい……。思わず手ぇ放してしまいました……」
与兵衛が首をすくめてしまったという態を取るが、嬉しさで笑顔のままであり、与右衛門もつられて笑ってしまった。若い頃は細身であった与右衛門も、體は丸みを帯びて、中年相応になっている。缺けてしまった茶垸は十貫で譲ってもらった唐物だ。しかし、今は惜しいと思う気持よりも、男子誕生の喜びが勝っている。
「まぁ、缺けてしまったものは仕方ない。直しに出せばええ」
「このカケをみる度に、志郎丸の生まれた日ぃを思い出しますやろなぁ」
何を暢気なことをと与右衛門が言おうとしたが、あまりにも嬉しそうに笑っている与兵衛を見るにつけ、言う気が失せた。与兵衛は欠片を茶垸の中に入れ、茶垸を天目台に載せる。与右衛門の言う通り、後で職人に頼んで金継ぎをしてもらう必要があった。缺けたままでは、使うことはできない。だが、漆塗の職人に知り合いはないかった。天王寺屋に紹介でもしてもらうのが良いかと、頭の片隅に追いやる。そんなことよりも、赤子が産まれた嬉しさで心は占められていた。茶垸を見て嘆くのは、後日のことである。
与右衛門が見上げた与兵衛は既に茶垸を忘れ、赤子のことだけを考える父親の顔だった。駆けだしたいほどの喜びを抑えて、静かに母屋へと戻る息子の後ろ姿に、与右衛門は思わず笑みをこぼした。
「志郎丸か」
与右衛門は多呂丸に弟ができたことを喜ばしく思いながら、火の始末もせず、母屋へ向かった与兵衛の後始末をするべく、道具を片付け始めた。外はにわか雨であったのか、再び雲は消え、五月晴れの蒼穹が戻っている。土が湿り気を帯び、雨の名残りだけがあった。
「入ってよいか?」
「だんさん、もうかまへんで」
産婆に断りを入れて、部屋に入ると紗衣が赤子と並んで横になっていた。綿貫の上掛けから肩を覗かせて、脱力した汗だくの顔を見せている。
「だんさん、男の子です」
「よぅやったな、紗衣。よくぞ産んでくれた。ありがとうやで」
紗衣の手を取り、与兵衛は涙ぐんでいた。この時代赤子を産むのは命懸けであり、死亡率も高い。腕のいい産婆と医者は缺かせぬ存在であった。
「産後の肥立ちが悪うといかん、ようけ休むんやで」
「ありがとうございます。それで、この子の名前は?」
既に名前は決めてあるものの、与兵衛は口にするのを一瞬躊躇った。というのは、この頃、命名はお七夜といって産まれて七日目の夜に宴を開いて命名書を飾ったからである。故事に倣わねば子の魂が攫われるといわれていた。だが、二人目も三人目も、お七夜をしたというのに身罷っている。
「志郎や。多呂、治郎、弥郎と名付けたよって、な」
多呂丸のときはお七夜の前に命名書を明かしてしまい、与右衛門に大目玉を食らったのだが、その多呂丸だけが生きていてくれているのに肖ったといえた。
大永二年五月朔日、干支は壬午年丙午月丙午日の午の刻。午の四変、まさに神馬の誕生である。