乳を同じうして枝を連ねる
高国の意向を受けた朝廷は、十一月廿五日、将軍継嗣に与えられる左馬頭に亀王丸を任じた。
十二月廿四日亀王丸は元服して義晴となり、翌廿五日、征夷大将軍に任じられ、政務が始まった。勿論、十一歳の義晴が政務を行える筈もなく、細川高国や政所執事の伊勢貞忠、飯川国信や大舘尚氏ら義澄を支持していた御供衆や、播磨国(現在の兵庫県南部)に所領を持つ奉公衆・三淵晴員の姉で大舘常興養女の佐子局らが政務の補佐を行った。
伊勢貞忠は足利義澄・義稙に仕えた貞陸の子で八月に家督を継いだばかりではあったが、将軍家に代々仕える政所執事の家柄である。父・貞陸は祖父・貞宗が義澄の後見をしていたことからも心情的には義澄派であり、貞忠も同じと見られていた。
飯川国信・大舘尚氏はともに奉公衆であり、幕府直属の軍事や代官などを務めている。特に大舘尚氏は父・教氏同様、有職故実に詳しく北陸方面の申次衆を兼務するほどの将軍側近であった。
その将軍を支えていた細川氏は永正の錯乱と両細川の乱という二つの内訌によって弱体化した。そこに現れたのが阿波守護代三好筑前守之長である。
三好之長は阿波守護細川讃州家に仕える阿波の豪族で、元々は守護代小笠原家に仕えていた久米氏の一族だった。
久米氏というのは伊予の国造を拝命した久米直の後裔で、伊予久米郡を領していた。
これの一族が阿波へ入り、三好郡に土着して勢力を伸ばしていく。主家である小笠原氏の姻戚となり、主家が没落すると、これに取って代わったのである。
そして細川澄元の京兆家・家督を取り戻すため、之長は大内義興が山口に帰郷し、高国の軍勢が弱まった隙を突いて畿内へ進出した。之長も摂津に拠点を設け、家督も取り戻し、政権運営も上手く行ったのだが、之長を支持していた讃州家先々代当主の成之、当代当主之持が相次いで亡くなると、澄元との仲が元々あまり良かったとは言えなかった之長は四国勢の諸豪族から反発されるようになっていった。
そして、永正十七年等持院の戦いで局地的な勝利を収めたものの、之長に反発した久米氏・河村氏・東条氏などが高国に降ったため、大勢が決して三好勢は大敗した。
高国勢の包囲を破れなかった之長は曇華院に身を潜めたが、高国の知るところとなり、謀られて次子・孫四郎長光、三子・芥川次郎長則、越後守長尚の子・新五郎長久と共に斬首されたのである。
千熊丸の父は三好長基という。細川澄元に仕えた之長の四男であり、嫡子の長秀の同母弟である。のちに古今無双の武将として名を馳せる男であるが、現在は細川高国と対立し、病死した澄元の遺児とともに阿波に逼塞していた。
「与右衛門殿、孫次郎様はそなたを大いに頼みにしとると申されとった。頼んだぞ」
親しげに与右衛門に話す人物、六十を少し過ぎたばかりの老人で、物腰も柔らかく人当りも良さそうであるが、小兵の割にはガッチリとした体躯をしている。相好を崩して話し入る様子から、与右衛門とは旧知の仲であることが察せられた。
「いやいや、蔵人様こそ、ご当代の後見。私なぞ微力にもなりゃしまへん」
蔵人とよばれた好々爺は、三好長基の叔父で彦四郎蔵人之秀という三好家の長老である。その物腰は飄々としており、一見して戦人とは思えなかった。三好家の人々というのは、文化の匂いのする者が多いのが、与右衛門の好ましきところであった。商人だからと見下げぬところがさらに良い。
「蔵人などと呼んでくれるな与右衛門殿。昔のように気安く彦四郎でよい。それにな、千熊を預かってもらえること以上に、今の大事はあるまいよ」
高々と笑い声を挙げる三好之秀につられて与右衛門もともに笑い声を挙げた。その裏に、阿波での逼塞が困難を極めることが分かる。
商人として何ができるかなどという気はない。ただ、出来ることをする――与右衛門にはそれしかなかった。