第四服 晴遷三坊(壱)
晴三坊に遷る
いつしかに 春とは知りぬ 鴬の
さだかならねど 今朝の初声
平瀬家蔵短冊手鑑 細川晴元より引歌
足利義晴は京に迎えられるとすぐに岩栖院に入った。
岩栖院は前将軍義稙も仮御所とした場所で、ここは細川右京大夫満元が金閣寺の余材で築いた邸宅だ。満元の死後・岩栖院という寺院として細川氏の庇護を受けたが、元は細川氏の所有であり、右京大夫高国が頼めば否とは言われぬ手札である。
岩栖院は平安京の北に延びる北大路から鞍馬口へと向かう場所にあり、大内裏を南に臨む。なるほど高国が好みそうな場所だった。ちなみに、大内裏とは元々帝の在所――私的な空間のことを指していたが、室町ごろからは内裏を含む宮城全体を指す言葉となり、内裏が帝の在所を表す言葉に変わっている。
大内裏から南に向いて左側を洛陽城、右側を長安城と云う。長安城は当初から宅地化が進まず、南西には湿地帯もあったことから、平安時代から洛陽城に人口が集偏りがちで、長安城は寂れたとは言わぬまでも、洛陽城の反映とは対照的であった。
室町当時の内裏は大内裏ではなく、里内裏――火災などのために臨時で設けられる内裏の一つ、土御門東洞院殿にあった。これは、承久の乱で多くが焼失した大内裏の再建中、安貞元年に火災で完全に焼失してしまい、以後大内裏の再建は行われることがなかったからである。これにより、歴代の帝は里内裏を在所とすることが慣例となった。
土御門東洞院殿が内裏として用いられるようになったのは、倒幕を志した後醍醐帝が京を脱して、鎌倉幕府の擁立した光厳帝が土御門東洞院殿を内裏としたことに始まる。そののちも北朝の帝が内裏として住まい、後世の東京奠都まで、内裏として用いた。
里内裏の「里」とは平安京の区画のことであり、坊と同じく方形に区切られたことを表し、さらに京中にあることを示している。
洛陽城は益々発展し、中央の朱雀大路が西端になると、居住の禁を破って鴨川にも市街地が広がった。結果、朱雀大路を西朱雀路などというようになる。そして、洛中・洛北・洛西・洛東・洛南という言い方は鎌倉期から徐々に定着していった。
足利義晴は将軍宣下を受けて、岩栖院から三条坊門御所へと移ったが、居心地の悪さを隠さなかった。憧れの曾祖父・義満が在所とした花の御所でないことが原因である。
「花の御所は再建できぬのか……」
「そのようなことはないと存じます」
側仕えの鶴寿丸が答えた。鶴寿丸は一色式部大輔政具の嫡子で、当年十一歳。父・政具は足利義澄に仕え、大永元年に歿したため、鶴寿丸は幼年で家督し、義晴の側仕えとなった。祖父・一色式部大輔政煕は上杉禅秀の乱を避けて京へ逃れ、義政の側近となって入名字し、一色を名乗った。政煕の父は上杉伊予守教朝――堀越公方の関東執事である。
「鶴寿は優しいな」
「いえ、私は何もできませぬが、右京大夫さまがなんとかしてくださいましょう」
鶴寿丸の言は若き主君の望みを叶えたい一心からの言葉であり、なんら根拠のある話ではない。
坊門とは、碁盤の目のような京の各区画を仕切る門のことで、夜明けの知らせとともに開き、日暮れの知らせとともに閉じる門のことで、夜間は通牒がなければ他の坊へ出入りできない。この管理は京職の職員である坊長が担ったが京職の官吏としての性格が強くなり、平安中期には保長が新たに任じられた。
三条大通に面したこの御所は歴代の将軍も御所とした場所で、花の御所と呼ばれた室町殿が「上の之御所」と呼ばれたのに対し、「下之御所」と呼ばれた。しかし、義稙の出奔によって放置されており、高国が襲位までに修繕させている。だが、高国は正月廿八日に義晴へ御所の移築を建議し、義晴はこれを承認した。義澄派の旧臣ら――奉行より新御所の造営候補地がいくつか挙がったが、高国はこれを悉く却下した。財政難の幕府を勘案した提案でなかったからだ。二月十六日には移築の見送りが決まる。