目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第三服 有乱寧波(伍)

ねいらん


 安化王は、劉瑾らの行った検地で過剰な負担を強いられ、寧夏衛の孫景文らと挙兵した。朝廷は前右都御史・楊一清を起用として提督とし、神英を平胡将軍に任じて、京営の兵を与えて派遣したが、到着前に寧夏の参将・仇鉞らの奇計が功を奏して、反乱はわずか十八日で鎮圧された。朱寘鐇は北京に送られて処刑され、仇鉞は咸寧伯に封ぜられている。


 正徳帝の寵愛を失って粛清されることを恐れた劉瑾は、同年八月、史上初となる宦官による帝位さんだつを企てたが、同僚の密告により捕らえられ、りょうけいとなった。凌遅刑とは、死ぬまで少しずつ傷をつけ、肉をぐ刑であり、なんと、死に至るまで三三五七刀にも及んだという。


 政変があったとは知らない細川高国は翌永正八年西暦1511年、細川船の正使に宋素卿を任じた。しかし、宋素卿はつつが無く任を果たしている。


 しかも、劉瑾の変以後も正徳帝の浪費癖は治らず、今度は宮中で軍事教練を行い、自ら練兵し、慢性的な国庫不足に拍車をかけた。更には宮中教練に飽きると親征と称して軍を率い、各地で美女を捕らえてかんいんふける始末であった。


 宿に戻った謙道宗設は、宋素卿の態度を思い出して更に怒りを募らせ、正式な使節は自分たちであることを頼恩に抗議した。しかし、清廉潔白な謙道宗設が袖の下を贈らなかったため、頼恩は取り合わない。そうなると謙道宗設は宋素卿が賄賂を頼恩に贈ったためだと断じて、事ここに及んでは是非も無しと、襲撃を決意。翌五月一日6月2日、船員三百人を率いて官庫を襲った。


 大内勢は預けていた貢納品と武器を強奪、東南の城門を占拠する。寧波府および同衙衛に宋素卿をはじめ細川氏の使節七十名が保護されたが、逃げ遅れた鸞岡瑞佐以下三十名が、謙道宗設らに捕らえられた。


 翌二日、城門に立て籠もった大内勢と寧波衛の攻防は一進一退が続くが、終始大内勢が優勢であった。勢いにのる大内勢は三日、捕らえた細川方の使節十数名を門外の河岸で斬首の上、死体を川に投げ込むと、港に押し入り細川方の船を貢納品ごと焼き払った。その隙に宋素卿は頼恩に嘆願し、紹興府へと逃亡した。


 宋素卿に逃げられた大内方は、怒りが収まらず、その勢いのまま寧波衛を破り、頼恩を殺害、寧波衛指揮のえんしんを捕えて明軍の軍船を奪って、逃亡する細川方を襲撃。若干名を殺傷するが、同時に抵抗する住民も巻き込まれたという。船員たちは町で放火し、略奪を働いたともいわれる。


 そのまま紹興に進軍した大内勢に、紹興府は城門を閉ざしたため、大内勢は宋素卿の引き渡しを要求したが、紹興府はこれを拒否。三百名足らずの軍勢では城攻めは難しく、大内方は寧波に引き返し、袁璡を捕虜としたまま、寧波を出港した。


「なんとまぁ……」


 与右衛門田中忠隆は絶句した。筋が枉げられたことを怒るのは分かるが、これでは国際問題になる。正式な手続きで抗議を行うべきところを一介の正使ごときが相手国の外交官を殺害した上、官府を襲って役人のみならず住民まで手に掛けるとは……。


京兆細川高国様は大層ご立腹だったそうな」

「そらそうでっしゃろ」


 ここまでされて怒らない者はいない。完全に面目を潰されたのだ。ただし、面目を潰されたのは大内義興もであり、もっと面子を潰されたのは明朝である。以後、天文五年西暦1536年まで遣明船は途絶えた。そして、寧波市舶司大監は廃止されることになる。


 遣明船による貿易の利は、堺を潤していた大きな流れだ。それが絶たれるとなれば大打撃である。源左衛門津田宗柏与右衛門田中忠隆を呼んだのはそれを聴かせて、これからのことを話す為だった。


「これからどないなさるお積もりで?」

「博多に引き合いのある天王寺屋ウチはそれほどでもおまへんけど……これまで以上に琉球との交易が大事になりますやろ」


 源左衛門津田宗柏も同じ思いであるのか言葉を濁す。与右衛門田中忠隆は、昨年の三好之秀の話を思い出していた。これは時代が動きそうだと、商売人の勘が囁く。与右衛門田中忠隆源左衛門津田宗柏とともに三好への肩入れを深めると決めた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?