安化王は、劉瑾らの行った検地で過剰な負担を強いられ、寧夏衛の孫景文らと挙兵した。朝廷は前右都御史・楊一清を起用として提督とし、神英を平胡将軍に任じて、京営の兵を与えて派遣したが、到着前に寧夏の参将・仇鉞らの奇計が功を奏して、反乱はわずか十八日で鎮圧された。朱寘鐇は北京に送られて処刑され、仇鉞は咸寧伯に封ぜられている。
正徳帝の寵愛を失って粛清されることを恐れた劉瑾は、同年八月、史上初となる宦官による帝位
政変があったとは知らない細川高国は翌
しかも、劉瑾の変以後も正徳帝の浪費癖は治らず、今度は宮中で軍事教練を行い、自ら練兵し、慢性的な国庫不足に拍車をかけた。更には宮中教練に飽きると親征と称して軍を率い、各地で美女を捕らえて
宿に戻った謙道宗設は、宋素卿の態度を思い出して更に怒りを募らせ、正式な使節は自分たちであることを頼恩に抗議した。しかし、清廉潔白な謙道宗設が袖の下を贈らなかったため、頼恩は取り合わない。そうなると謙道宗設は宋素卿が賄賂を頼恩に贈ったためだと断じて、事ここに及んでは是非も無しと、襲撃を決意。翌
大内勢は預けていた貢納品と武器を強奪、東南の城門を占拠する。寧波府および同衙衛に宋素卿をはじめ細川氏の使節七十名が保護されたが、逃げ遅れた鸞岡瑞佐以下三十名が、謙道宗設らに捕らえられた。
翌二日、城門に立て籠もった大内勢と寧波衛の攻防は一進一退が続くが、終始大内勢が優勢であった。勢いにのる大内勢は三日、捕らえた細川方の使節十数名を門外の河岸で斬首の上、死体を川に投げ込むと、港に押し入り細川方の船を貢納品ごと焼き払った。その隙に宋素卿は頼恩に嘆願し、紹興府へと逃亡した。
宋素卿に逃げられた大内方は、怒りが収まらず、その勢いのまま寧波衛を破り、頼恩を殺害、寧波衛指揮の
そのまま紹興に進軍した大内勢に、紹興府は城門を閉ざしたため、大内勢は宋素卿の引き渡しを要求したが、紹興府はこれを拒否。三百名足らずの軍勢では城攻めは難しく、大内方は寧波に引き返し、袁璡を捕虜としたまま、寧波を出港した。
「なんとまぁ……」
「
「そらそうでっしゃろ」
ここまでされて怒らない者はいない。完全に面目を潰されたのだ。ただし、面目を潰されたのは大内義興もであり、もっと面子を潰されたのは明朝である。以後、
遣明船による貿易の利は、堺を潤していた大きな流れだ。それが絶たれるとなれば大打撃である。
「これからどないなさるお積もりで?」
「博多に引き合いのある