第三服 有乱寧波(肆)
寧波に乱有り
勘合とは、明王朝の発行した文書の名称で、割符のように突き合わせるものではないため、勘合符というものは存在しない。明王朝では国内の商取引のいくつかも勘合によって許可制になっていた。
最初は規模の大きかった遣明船も、応仁の乱以降は十年に一度で派遣船は三艘、乗員は三百人までと制限された。これは滞在費などを明側が持つため、財政難の続く明が支出の削減を狙ったものだと言われている。
規模が小さくなったとはいえ、それでも、遣明船による日本側の利益は莫大で、細川氏と大内氏は熱望していた。しかし、正徳勘合は大内氏の管轄であるため、高国は弘治勘合を幕府から強引に引き出すことになったのである。
「京兆様も随分と強引なことをなさいますなぁ」
「与右衛門はん、感心しとる場合やおまへんがな。その先がオオゴトでっせ」
そもそも、大永三年の遣明船は永正十六年に大内氏よって計画され、正徳勘合三枚が大内氏に下げ渡されている。正使に渡来人で大内氏の菩提寺である凌雲寺の住持・謙道宗設、副使に臨済宗の日向国竜泉寺住持・月渚永乗が任じられ、三艘の遣明船が仕立てられた。首船は大内船であり、東福寺船と博多船という構成である。謙道宗設らは前年秋に出立、四月廿七日に現地入りした。しかし、何故か臨検は行われず、放置されたまま、。
大内船に遅れること二日、細川氏の弘治勘合遣明船が入港した。細川高国は正使に臨済宗の美濃国瑞光寺から相国寺住持に上がった鸞岡瑞佐を、副使に宋素卿を任じている。これは細川船であるが、相国寺船でもあり一艘のみであった。
不可思議なことに寧波の市舶提挙司が行う臨検は、到着順で行われるのが基本であるにも関わらず、市舶司太監の頼恩は細川氏の本来無効な勘合を不問にし、臨検を即刻行ったのである。本来は大内氏の遣明船が先に臨検を受けるはずだった。ちなみに太監とは長官のことであるが、宦官の別名でもあった。頼恩は宦官である。
その夜、両使節団が招かれ、歓待の宴となったが、上座に細川方、下座に大内方という席次である。面白くないのは謙道宗設ら大内氏の使節団だ。臨検を待たされた挙げ句、あとから入港した細川氏らが先に臨検を受け、しかも上座に坐っている。歓待の宴は罵声の飛び交う修羅場となったが、居心地の悪さを感じる鸞岡瑞佐に対して、宋素卿は平然としており、それに謙道宗設はますます憎しみを滾らせ、月渚永乗が必死に宥めた。
宋素卿というのは、明人で貿易商である。明は民間の自由貿易を禁じていて、貿易をしていたということは、当然密貿易であり、倭寇と繋がりを持っていた。
しかし、遣明船が再開されると、倭寇が下火になることを察し、すぐさま明応四年の遣明船で明に渡っていた湯川新五郎に従って渡来、日本に居を構え「素卿」と名乗ったといわれる。これはどうも本名の朱縞を日本人が聞き取り間違えたものがそのまま定着した呼び名に漢字を宛てて名前らしくしたというのが真相のようだ。
堺を拠点に貿易で身を立てた宋素卿は、永正七年四月、足利義澄公の使者として渡明した。あまり歓迎されていない中で、黄金一〇〇〇両を宦官の劉瑾に献上して、歓待を勝ち取り、前例のない飛魚服を得たという。この頃、正徳帝は劉瑾ら八人の宦官――八虎と言われた――に遊興を奨められ、政治を顧みず、一部の朝臣と結託し朝政を壟断した劉瑾ら八虎によって明の朝廷は収賄政治の坩堝と堕していた。
飛魚服というのは、錦衣衛や武将に皇帝から賜る朝服であり、軍服の一種である。宋素卿は皇帝の側近と同じ扱いを受けたに等しい。
宋素卿が賄賂を贈り誼を結んだ劉瑾は、同年に起きた安化王の乱の原因であると主張されていた。安化王の乱とは正徳五年五月十二日、安化王朱寘鐇が劉瑾の誅殺を掲げて起こした反乱である。