第三服 有乱寧波(参)
寧波に乱有り
足利義満が歿すると新たに公方となった足利義持は朝貢を嫌って応永十七年に中止してしまった。それまでの間に、六回ほど派遣されている。朝貢使節の滞在費は明の負担であったため、回を追うごとに大規模になる遣明使節団の対応に苦慮しており、朝貢が絶えたことは特に音沙汰なかった。足利義満は名を売って実を取ったが、朝貢を嫌った義持は朝鮮や琉球との交易でそれを補えると考えたのである。
「堺で遣明船を用立てるようになったんは、与右衛門はんもご存知の通りや」
「公方はんのお声掛りで備中屋はんが奔走しはった……でっしゃろ?」
源左衛門が大きく肯く。
義持が期待したほど、南方交易は活況を見せず、窮した幕府は自力で遣明船を派遣することが難しくなったため、足利義教は永享四年、堺の備中屋新左衛門に命じて再開させる。これは有力な寺社や大名家が船主となって、使節を請け負い、代わりに抽分銭を幕府に納め、幕府から勘合を発行してもらう形であった。これを利用したのが周防の大内氏と畿内の細川氏である。
大内氏は兵庫津・博多津、細川氏は堺津・撫養津・浦戸津・須崎津・与津などの良港を擁していて、この日明貿易の経済効果を上手く利用しようと対立していた。
そして、永正の錯乱によって勢力の衰えた細川氏に対し、大内周防権介義興が上洛の軍を起こした。破竹の勢いをみせる大内勢に対抗しようとする細川右京大夫澄元であったが、讒言を信じた澄元に疎まれた高国は、大内義興と結んで澄元と袂を分かつ。澄元陣営から離反した高国は、前将軍義尹を奉じた大内義興を洛中に迎え入れ、協調路線を取ることになる。反讃州家の内衆を糾合し、弱体化した細川氏の基盤を補うためでもあった。
将軍に復した義尹は名を改め義稙と名乗り政権運営に携わっていくが、三者の蜜月は瞬く間に終わりを迎えた。先ず、義稙と高国の意見が対立する。帰国したい義興は将軍を疎んじはじめるも、それを引き止めたい義稙が義興を利で釣り、更に高国との対立を深めるという悪循環であった。
完全に決裂するのは、永正十三年、義稙が遣明船派遣の管掌権限を恒久的な特権として与えるとする御内書と奉行人奉書を、高国の反対を押し切って義興に与えてしまったことによる。これで細川高国と大内義興の協調は難しくなった。
この頃、義興は国許の情勢の不安定さもあって、麾下の武将たちが勝手に帰国するような状態であった。更に大内氏の領国に尼子氏が度々侵攻するようになると、遂に永正十五年八月二日、義興は管領代を辞して堺を出発。十月五日に山口に帰国した。
こうして再び高国の単独政権となれば、大内義興への憚りなく日明貿易に乗り出すことを画策する。高国としては、敵対勢力を抑え込むのに必要な財力源をみすみす義興に奪われたままにする訳にはいかなかった。この辺りの政治均衡感覚が義稙は稚拙である。
大内氏は応仁の乱で得た播磨の兵庫津から瀬戸内を通り、山口・博多を経由する瀬戸内航路を抑えているのに対し、細川氏側は領国である淡路・阿波・土佐から、日向や薩摩に寄港して種子島へ渡る南海航路を扼している。
大永三年の遣明船で細川高国が用意したのは弘治勘合で、本来であればこれはおかしい。明は既に嘉靖帝が立っているが、即位してから朝貢使節は派遣していなかった。故に嘉靖勘合は日本に交付されていない。新たに嘉靖勘合を受け取るまでの正規勘合は先帝が発行した正徳勘合でなければならない。日明貿易は朝貢貿易であり、朝貢と貿易が一元管理されるため、新帝即位に際して勘合百部が発行され、幕府に渡されていた。
この弘治帝・正徳帝・嘉靖帝という言い方は日本独自のもので、明が一世一元の制度であり、皇帝一代の間は同じ元号を使い続ける制度であったことに因む。このため日本では明朝皇帝に元号を付けて呼ぶ習慣が生じた。新帝である嘉靖帝は世宗で、弘治帝が孝宗、正徳帝が武宗である。