第三服 有乱寧波(弐)
寧波に乱有り
ちなみに稽古とは「古きを稽える」と読み、「稽」の字には「すみずみまで考えを巡らせる」という意味がある。つまり、稽古とはただ言われたままに同じ動作をするのではなく、その所作にどういう意味があるのかを自らに問うことなのだ。この辺りが面壁をする禅と通じる部分である。
「まぁ、ええでっしゃろ。まちごうたらあかん訳やないさかい」
この辺り源左衛門と新三郎は似ていなかった。源左衛門は手を美しく見せることに厳しかったが、新三郎は人当りが柔らかい。しかし、言葉は柔らかくとも芯に冷えを感じさせる。つまり、人として厳しいのだ。決して冷酷な訳ではないし、人情がない訳でもない。自己研鑽を大事にするというか、人に期待していないというか、人の成長が一朝一夕に行かぬと悟り、長い目で見ているのかもしれない。いい師匠とはこういうあまり言い過ぎない師なのではないかと、風炉釜の蓋を閉めながら与右衛門は思った。
「与右衛門はん」
カチャン!
予想していない声に急に呼ばれて手許が狂い、唐銅の蓋が大きな音を立てた。続き間の開けられた襖の向こうから、源左衛門が顔を覗かせている。新三郎はどちらにか、しかめっ面をしていた。
この時間に源左衛門が顔を見せるのは珍しい。いつもなら顕本寺の日演和尚と碁でも打っているはずだ。早々に負けでもしたのだろうか。とても難しい顔をしている。
顕本寺は、和泉国の法華宗の中心で、末寺頭である。南泉に法華経の教区を広げた寺で、開基である日隆は越中守護であった斯波義将の女婿・桃井尚儀の子であった。日隆は河内国石川郡加納の豪族で叔父の斯波義盛の次子・日浄をして顕本寺の後継とし、開山させたものである。
始まりは木屋弥三右衛門や錺屋藤左衛門らの屋敷を法華堂としたところからであった。宝徳三年山之口の南寄り、開口神社の裏に本堂が創建されて以来、和泉国法華宗の中心となっている。堺の納屋衆にも信者は多かった。
「従兄さん」
「……なんや、まだかいな。えろう失礼したの。与右衛門はん、しまいに寄ってくれんかね?」
源左衛門は与右衛門に話があるようだった。新三郎が渋々といった様子で頷くので、与右衛門は恐縮しながら頭を下げた。
半刻ほどして、稽古道具を片付けて水屋から出できたところに、丁稚の小僧らしい少年が待ち受けていた。茶の稽古は、道具を出してから片付けるところまでであり、炭は継いで使い続けて、一日の終わりの者が片付ける。今日は与右衛門の後にまだ稽古をするものがいるとのことで、片付けはすぐに済んだ。
早足で廊下を振り返りつつ小僧が歩いていく。大分、源左衛門に急かされたのか、今にも走り出しそうで、可笑しげであった。
部屋に通されると、源左衛門が手招きをする。そこは南蛮風の椅子と円卓が置かれた部屋で、葡萄酒が入った玻璃の瓶と銀の杯が載っていた。
「綾人、お駄賃や」
「おとやん、おおきに」
どうやら丁稚の小僧に見えたのは源左衛門の末子のようであった。小遣い稼ぎに丁稚の真似事とは畏れ入る。それとも天王寺屋ではこうして幼い頃から商人の修行をさせているのか、どちらにせよ与右衛門にとって驚くべきことだった。
「えらいことになりよったで」
声を潜めて源左衛門が言う。なんと、細川武蔵守高国が送り出した遣明船の正使が寧波で殺害されたのだという。四月九日に前将軍・義稙も亡くなっており、良くないことが続くのを感じさせた。
「そもそも、今回の遣明船はきな臭うての」
遣明船は、日本から明に派遣される朝貢使節を乗せた商船団である。春または秋に北東から吹く季節風に乗って出発し、四月を過ぎてから吹く西南西の夏の季節風に乗って日本に戻っていた。
遣明船は三代将軍・足利義満が始めたもので、貿易を認めない明国に対し、朝貢することで貿易をしようというものであった。