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第五服 晴成厩府(弐)

せいきゅうなり


 在地の香西氏は下向した豊州家で、その他に備州家(四郎家)があった。備州家当主となった備中守元直が弟・三郎二郎元顕を豊州家に養子に入れており、元顕は名を左近将監元綱と改めている。備中守元直の系統は備中守元継、次郎直親があったが、応仁文明の乱で断絶した。そして、元綱の子・豊前守もとさだか登場する。この系統を下香西家と呼んだ。


 讃岐の中央部に位置する香川郡香西邑から郡を領する下香西氏は東西讃州の要衝である。故に、讃岐回復の際には元盛を西讃の守護代に任じ、下香西氏を寄騎にすることで香西氏を一本化したいと高国は考えている。


 現在、讃岐は阿波守護の細川讃州家が東部に進出しており、中央部に位置する下香西家の元定は大内氏に属して久しい。その上、元定は塩飽しわく水軍を率い、朝鮮などと交易して下香西家の全盛期を築いていた。


 管を巻く元盛を抑えているのが波多野三兄弟の末弟・やなぎもとろう左衛門尉かたはるだ。げんぞくした長兄・孫右衛門元清に代わってせん寿じゅとうの弟子となったが、その後、高国の命で山科こうしょうてらざむらいである岩崎太郎左衛門吉永の養子となり与五郎吉治と名乗る。しかし、永正十七年(一五二〇)に大和の国人・柳本出雲守ながはるが嫡子弾正忠かたはる共々討死すると、その後嗣として高国の命で家督した。その際、細川尹賢の偏諱を受け五郎左衛門尉賢治と名を改めている。尹賢の家臣ではないが寄騎である賢治は、文官肌でありながらも知略に優れた尹賢を尊敬していた。それ故に、尹賢と反りの合わぬ元盛の対応に苦慮している。共に育った兄を大切に思っているのだ。


 少し離れたところに次兄・元清があり、チラチラと三弟・元盛を心配しているのが伺える。やや粗暴なところのある元盛を案じているのだろう。波多野の三兄弟は賢治だけ母が違うのだが、早くに亡くなり、元清の母が引き取り養育していたため、異母兄弟という意識は薄い。


「わぁ〜ってる。与五郎柳本賢治は気にしすぎだ。あそこまで声なんざぁ、届きゃしねぇって」

「なんにせよ、静かにしてください」


 声を落としたとはいえ、なおもブツブツと尹賢の悪口を呟く元盛に、小さい溜息をく賢治であった。


 朝倉氏が土佐光信に描かせたという『一双画京中』に描かれた細川京兆邸と並んで豪華絢爛な典厩邸であるが、あらたしく落成した寝殿は、義満公の北山山荘や義政公の東山山荘の舎利殿を模しており、六波羅風の独立した母屋であった。


 典厩家というのは、細川京兆家――すなわち本家の執事であり、内衆と呼ばれる家臣団の取りまとめ役である。細川京兆家九代当主・右京大夫六郎もちもとを支えた右馬頭弥九郎もちゆきが長兄・持元の跡を嗣ぐと、三弟・もちかたが幕政に忙しい兄・持之の代理として弥九郎を名乗り、内衆を仕切ったことから始まった。弥九郎は以後、典厩家の仮名となる。


 内衆というのは在地の国人衆を取り仕切る守護代や直轄領の奉行を務める細川氏の直臣である。時代が下るに連れ、在地の国人衆を取り込んで半ば在地化するものや、国人から取り立てられた者も増えていた。香西元盛や柳本賢治のように直臣が国人衆の在京家の家督に入って家中を掌握することで、国衆との結びつきを強くすれば地盤が固めやすいという高国の思惑によるものでもあるが、完全に別家となっている家も多く、国人らを上手く取り込めているとは言えない状態であった。


 これは、両細川の乱で家中が二分してしまい、在京家と在地家が分裂してしまっていることと、戦国の世となり実効支配が優先されたことによる。


 尹賢は細川野州家の分家・細川中務少輔はるともの子として生まれた。兄は備中国守護となったくにとよ、弟は和泉下守護家を継いだたかもとである。初めは外様衆で一門の細川駿するのかみまさきよの養子となり、まさみつと名乗っていた。養父の歿後に将軍よしずみ公より偏諱され駿河ぎょう少輔のしょうゆうすみしげを名乗った。

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