晴厩府に成す
典厩家三代細川右馬助政賢は永正の錯乱で澄元を京兆家当主に推して当主に据え、澄元と高国が対立した両細川の乱で澄元が阿波に落ち延びると、京を離れ澄元に合流している。高国は典厩家の家督を空けておかず永正六年駿河守澄重を後嗣とした。これにより典厩家も二流に分裂した。
政賢は和泉下守護家から典厩家へ養子に入ったとも言われ、典厩家二代右馬頭政国の後嗣である。政国自身も野州家細川持春の子で、持賢の養子に入っていた。典厩家は養子が続いており、家というよりも当主の右腕が当主となるという側面が強い。
政賢は阿波国守護・讃州家の細川讃岐守彦九郎義春の女を正室に迎えており、嫡子・弥九郎澄賢を産ませていた。また、女を高国に嫁がせているにも関わらず、両細川の乱で澄元陣営に奔ったのは、澄元が義春の子で、自身が妹婿であったことと、高国の室となった女が既に身罷っていたからであろう。
両細川の乱とは、京兆家直系が途絶えたことによる野州家出身の高国と讃州家出身の澄元の争い――分家同士の家督争いと見たほうが分かりやすい。
永正八年、船岡山合戦で、政賢が戦死すると、澄重は右京大夫高国を通じて将軍義尹より一字拝領の栄誉を受け、名を尹賢に改めた。これにより、名実ともに典厩家を掌握する。子は宮寿丸(のちの細川次郎氏綱)が十二歳、宮禄丸(のちの細川四郎藤賢)が八歳、宮福丸(のちの細川六郎勝国)が生まれたばかりである。
尹賢の横に緊張した面持ちで坐っている男子が宮寿丸だ。所在なさげで、場違いな大人の場に連れてこられた感が強いが、将軍御成というのは武家にとって誉れであり、元服していなくてもある程度の年齢になればこうした場に出ることもある。ましてや、自邸への御成に嫡子が顔を出さぬ訳にも行くまい。
「宮寿は右馬頭に似て、賢い顔をしているな」
「上様のお褒めにあずかり恐悦至極に存じます」
尹賢がさっと頭を下げると、慌てて宮寿丸も頭を下げる。慌てたために烏帽子が少し斜めになって、床に付いてしまっていた。
義晴公は歳の近い宮寿丸のそんな様子に笑みを零す。親近感を持ったのだろうか。
「確か高国の子も同じような年頃であったか?」
「はっ、宮寿と同い年になりますと、聡達で御座いますかな。いささか蒲柳の質では御座いますが」
蒲柳というのは楊柳のことで、蒲柳の質とは、唐国の南北朝時代、梁の簡文帝が同年の顧悦が若い頃から白髪であったことを尋ねた故事からの成語である。
蒲柳之姿 望秋而落 蒲柳の姿は秋に望みて落ち
松柏之質 凌霜猶茂 松柏の質は霜を凌いで猶お茂るがごとし
自分を楊柳に例え、皇帝を松柏に擬えて顧悦が答えたことに周囲は感服したという。顧悦は事実病弱であったが、無理をせず病に気をつけて暮らしたため、早世することはなかった。
高国の子は、長男・六郎稙国(幼名・聡明丸)、次男・八郎持国(幼名・聡叡丸)が既に元服しており、三男・聡達丸(のちの九郎高頼)だけがまだ元服していない。
「そうか、ならば年頃も良い。二人とも元服させては、如何か」
「上様のお声掛かりとなれば、光栄の至り。されど、我が弟虎益が未だ元服しておりませぬ」
「そうであったか。では、そのように取り計らい、宮寿を高国の猶子とすればよかろう」
「武蔵守様の猶子など、宮寿には畏れ多きことに御座います」
この時代、将軍より元服を勧められるのは誉れであり、近習取立てと同義である。それは将来政権の中枢に入るという将来が開けることでもあった。これを喜ばぬ親はない。その上、本家の猶子とは。尹賢は高国の顔色を伺う。尹賢が直接将軍家と結びつくことを高国に警戒されては排斥や最悪粛清される可能性もあるからだ。
「よいよい。私も宮寿を気に入った。猶子ならば問題もなかろうよ」
尹賢の心配を察したのか、高国がそっと耳打ちした。