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第八服 光宿朽館(弐)

こうきゅうかん宿しゅく


 朽木氏は外様衆とはいえ将軍偏諱を受ける家柄故、多少の遠慮がないでもなかった。それでも、ともに幕府方である限りは同陣営の仲間である。


 朽木氏は高島郡に根を張る高島七頭の一つで、高島七頭とは、


 清水山城の高島氏 越中守越州家

  平井城の平井氏 能登守能州家

 永田城の永田氏  伊豆守豆州家

 朽木城の朽木氏  出羽守羽州家

  横山城の横山氏 佐渡守佐州家

  田中城の田中氏 伯耆守伯州家

 五番領城の山崎氏 下総守総州家


 のことである。山崎氏を除いてすべて同流の西佐々木氏だが、山崎氏も佐々木氏ではある。高島氏が惣領であったが、若狭街道を擁した朽木氏が勢力を大きく伸ばし、高島氏を凌ぎはじめていた。高島氏・永田氏・朽木氏は兄弟分で、平井氏は高島氏の分流、横山氏と田中氏は朽木氏の庶流にあたる。


 朽木氏は先々代当主さだつなの子・さだちかよしより偏諱を受けひでを、その嫡子も復位して改名したよしたねより偏諱を受けてたねひろを名乗った。材秀は永正十三年西暦1505年に急逝したため、幼少で家督した稙広を大叔父のさだきよが支えたが、先年亡くなっている。その後、稙広は第二子に恵まれ、元光も祝いの品を贈っていた。民部少輔を任官し、名を稙綱に改めたのは大叔父歿後のことである。


「色々と難しい時代よな……」


 元光には祖父・国信のように将軍家を支えていればいい時代ではなくなっている感覚があった。それはおおよそ間違いではあるまい。国信がそうしたように、父・元信も在京が多く、度重なる出兵に民の不満が溜まり、さらには国主不在で在地支配の箍が緩み、一揆を引き起こしそうになったこともあった。細川高国が大内義興と結び、義稙を推戴した辺りから、義澄派であった元信は京を辞した。


 父も将軍家を支えようとしていたし、元光もそれで畿内が平穏になるならば我が身の労苦など惜しみもしない。しかし、時代は最早足利家を推戴して立て直せるような状況ではなかった。幕府の求心力はほぼ無くなり、有力大名である細川京兆家に推戴されねば維持できない上に、その細川京兆家が分裂して争っている。それ故、積極的に幕府に関わろうという気は元光には無くなっていた。それよりも、独立独歩できる体制を整えることに奔走している。


 そして、大名という立場から見れば、半独立の国人衆など目障りなだけである――という考えを元光も持っていた。武田氏とて、国人衆の仕置に苦労している。ましてや、同格の分家が多い近江はまとめ上げるのに気苦労の多いことだろうと六角定頼に同情もする。元光とて、信親派であった逸見氏の反撥に手を焼いているのだ。一門衆といっても、当主がせいぎょできないのでは統治に邪魔な存在でしかないのである。その上、代々の宿敵である丹後一色氏に加え、朝倉氏も西進の構えを見せていた。朝倉氏が若狭進出にそこまで積極的ではないのは、加賀の一向一揆を警戒してのことである。このため、武田新五郎のぶひさを通じて、本願寺と連携し、朝倉家の後方撹乱を依頼していた。


「あと一刻2時間もすれば朽木城も見えて参りましょう。あれが父の申していた小椋栖山ですかな?」


 押し黙った元光に勝春が饒舌に父との思い出を話す。それでもなお黙ったままの元光を訝しげに見ると、元光が難しい顔をしていた。


「御屋形様、如何なさいましたか?」

「いやな……いつまでこんな世が続くのかと思ってな」


 応仁の乱――文明九年西暦1467年から始まった戦乱の世も既に五十年以上が経っている。元光が生まれた明応三年西暦1494年は既に戦乱のさなかにあり、これからもまだまだ続くのだろう。それでも――


「戦のない世など、どうしたら訪れるのか――などと考えてもらちもないのだが」


 そういいながらも行く手に見える朽木の渓谷を眺めながら、再び考えてしまう。


 元光は若狭武田の当主であり、直臣や一門、その家族、家人を背負っている。宿老たちを上手く抑えながら家臣らの謀反の芽を摘み取り、より強く在らねばならなかった。


 父が文化的な連歌や茶の湯に惹かれたのも分かる気がした。

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