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第八服 光宿朽館(壱)

こうきゅうかん宿しゅく


足引の山に生ひたるしらかしの

知らじな人を朽木なりとも


 わか武田氏の軍勢は、九里半越熊川街道の中ほどにある国境の若狭側の峠――くまかわ峠を過ぎ、おうに入って一つ目の集落・ほうざかを南に折れて、くつ街道を、既に半刻1時間ほど歩いていた。両側にり上がる山の向こうに朽木谷をようするぐらやまが見えている。大永四年西暦1524九月10月廿八日25日朝に熊川宿を出て、既に昼時を迎えていた。


 朽木――ここは近江のくにの北西部にあるたかしまのこおりの最南部にして、やましろ国に接する。それ故、若狭と京を結ぶ街道筋に古くから開けた宿場町として発展した。若狭ばまと京を結ぶ街道の内、最も人が行交っている。


 また、朽木は古来から京への木材の供給地で、この時代の最高級食材である椎茸を産し、現代でも原木の生産で知られる。松茸や山菜なども豊富で、新鮮な食材を京都に提供してきた。京から半日の距離にある朽木は、若狭街道と川が交差しており、陸運と水運の接続点・中継基地として重宝がられていた。


 朽木のある近江は日本最大の淡水湖である琵琶湖――この当時はあはうみのうみ――淡海おうみを擁する、山城国に隣接する国の中で最も大きな国でもある。ちなみに琵琶湖という呼称は、江戸時代に定着したもので、測量技術が発達して湖全域の地図が作られるようになり、湖の形がべんざいてんの持つ琵琶に似ていことが分かったからだ。この時代はまだ琵琶湖と呼ばれていない。その日本最大の淡水湖である淡海では湖上水運が発達し、湖南から淡海のほぼ全域を抑えるかた党と湖北の一部をやくするすがうら党がぞくとして常に争っていた。


 別名ごうしゅうとも呼ばれ、東山道に属する近江であるが、関西――すのまたの関よりも西にあるため、現代では畿内と合わせて近畿地方と呼ぶ。これは物理的に京との距離が近い土地柄と、河川交通によって摂津や和泉までを交易圏にしていることもあいっているからだが、それ故にこの当時の幕府や朝廷の影響を受けやすかった。望むと望まざるとに関わらず、中央の権力争いに巻き込まている。


 近江は湖を中心に南側をごうなんごうとう、北側をごうほくごう西さいと呼び分けている。江西は高島郡全域、江北は郡・あざ郡・さか郡、江東はいぬかみ郡・郡・神崎郡、江南は滋賀郡・くり郡・がも郡・こう郡・郡であった。郡は十二を数えるも、国土の六分の一を湖に占められている。近江盆地がやや南から東よりに拓け、穀倉地帯となっており、南近江はかなり豊かだ。東の国境はぶき山地がとの境であり、まいばらからあまがわさかのぼって国境を越えれば関ケ原に抜ける辺りが渓谷となっている。その南のすず鹿山地がとを隔てる。山中にあるには甲賀郡から街道が通り、伊勢に通じていた。近江最大の街道といえば越前に抜けるほっこく街道で、湖の西岸と東岸をぐるりと囲んで京と北陸を結び、それぞれ西近江・東近江路と呼ばれる。


 国力等級はたいこく、距離等級はきんごくで、後の太閤検地では七十七万五千石と全国二位を誇る米の生産量がある。さらに、近江商人と呼ばれる水運と陸運に跨がる商活動に熱心な者たちの本拠地であり、経済的価値も高かった。


 軍勢の中央よりやや前方に馬を進める武田伊豆守元光とくつわを並べたあわ孫四郎かつはるが近習らしく主を気遣って話しかける。


「朽木様も、御屋形様との再会を心待ちになさっておいででしょう」

「だといいのだが、な。ろう殿の立場も厳しいものがあろうて」


 勝春のいう朽木様とは、佐々木みん少輔のしょうゆうたねつなのことである。弥五郎は朽木氏歴代当主のみょうで、対等な者や親しい者だけの呼称だ。元光は自分が一つ違いの年上であることと、お互い当主である気安さもあって弥五郎殿と呼んでいる。稙綱も元光をひころう殿と呼んでいた。元光が上洛する度に朽木を通るため、稙綱と元光は幾度となく酒を酌み交わした気心の知れた相手となっている。


 元光としても朽木稙綱が若狭と京を結ぶ交易中継地の領主であることもあり、とりわけ友好的に接していた。

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