第七服 光発若府(伍)
光若府を発つ
大永四年九月廿七日朝、後瀬山城を出た軍勢の中に、元光の姿があった。遠い国境の向こうにある京を見ている。脇に控えていた近習がすっと馬を寄せた。元光の物憂げな様子を察したからだ。
「御屋形様、京は三年振りにございますな」
「ああ、久し振りだ。……そういえば、孫四郎は初めての京であったな」
孫四郎は、粟屋左衛門尉親栄の子で勝春という。粟屋氏は若狭武田家の重臣で、惣領の越中家、総州家、防州家を中心に粟屋党と呼ばれる兵一〇〇〇を擁する。同じく重臣の逸見氏と武田家中の双璧を為していた。勝春は惣領家の出で、父は先代当主笑鷗軒悦岑宗怡――右京亮国泰の三弟に当たる。現当主は宗怡の二弟・笑鷗軒悦巌宗運――越中守泰家だ。宗運の跡目は宗怡の子・孫三郎元泰が嗣ぐことになっている。
「父が京に居りましたのは其某の生まれる前ですからなぁ。京のことは話でしか知りませぬ」
「左様であったな。孫四左が京から戻らねば、丹後の手掛かりも失うておったやも知れぬ。そちも生まれなんだしの」
元光は感慨深く幾度となく頷いた。孫四左とは武田元信が粟屋親栄につけた綽名で、孫四郎左衛門尉を略したものである。
勝春は唇を一文字に結んで何も言わぬ。親栄は粟屋党にあって、信親に近く、これは親栄の家中での地位に比して粟屋党内での立場の弱さを表している。それもその筈、親栄は二人の兄たちとは母が違った。親栄は信親の偏諱である。
祖父・越中守繁隆も父・越中守賢家も既に歿しており、岳父・下総守賢行も亡き後、親栄を後見する者はいなかった。信親派と疑われながらも、兄二人は親栄を可愛がり、親栄も武張ったことが苦手な兄二人に代わって戦働きで数々の功を挙げている。そして、左衛門尉を授かり、重臣の末席に列した。
永正三年、武田元信は粟屋親栄を丹後に派遣した。親栄は七月廿八日には由良川を越え天橋立近くの神野に進出、八月三日に宮津になだれ込み、延永修理進春信と戦って、如願寺を焼き払った。更に府中に渡り、阿弥陀ヶ峰城を見下す成相寺に陣を敷く。九月廿四日、援軍として入った丹波守護・細川九郎澄之は加悦城を攻めた。在京していた一色左京大夫義有は急報を受け、石川城の吉原四郎義遠、宮津城の式部少輔義春、吉原山城の吉原越前守義信らに武田勢を逆包囲させ、義有は今熊野城に籠る。
窮地に陥った武田元信は細川右京大夫政元に救援を求め、翌四年四月、政元は澤蔵軒宗益を武田氏支援に向かわせるも、五月十一日にまたも武田方が敗れた。同廿五日、政元帰洛。加悦城を攻めていた細川澄之も石川勘解由左衛門尉直経と和睦して帰陣する。府中では、今熊野城の一色左京大夫義有および阿弥陀ケ峰城の延永春信と両城を囲む武田・赤沢勢とが対峙した状態のままであった。六月廿三日、政元が暗殺される。同月廿六日、政元の死を知った澤蔵軒宗益は和睦して、軍を撤退させようとしたが、翌廿七日、石川直経と延永春信に挟撃され、粟屋親栄と共に普甲谷で討死した。
幼くして遺された勝春は母が総州家の出で、叔父・下総守元勝の後見で、大叔父・左衛門大夫国春の遺領とそして親栄の官途名・左衛門尉を継ぐことになった。
「亡き父に代わり、御屋形様に身命を賭してお仕えいたしまする!」
「そう気負うでないぞ、孫四郎。先ずは戦に出たらな、生きて帰ることよ。生きて居らねば恥を雪ぐことも叶わぬ」
そう、立場を失った元光の父・元信は丹後守護を解かれ、若狭侵攻を狙う一色氏を警戒して若狭に下向した。そして、義晴に供奉して京に凱旋したのである。一時の恥など、犬に喰わせてしまえばよいのだ。
「命を懸けてはなりませぬか」
「いや、そうではない。懸けるべきときを見誤るな、ということよ」
元光は諭すかのように勝春を見た。