第七服 光発若府(肆)
光若府を発つ
宗勲は長享元年、足利義尚の六角高頼討伐に従って出陣したが、延徳元年に義尚が亡くなると遺骸に付き添って京都に戻った後、若狭へ帰国。翌二年六月廿一日、小浜で病死する。
武田信親は足利義材に近侍したが、弟・彦次郎元信は御供衆に上がり、細川右京大夫政元と近い。明応元年、義材による第二次六角征伐が始まると、信親は六角大膳大夫高頼を破るのに武功を挙げた。このため、義材に重用されるようになり、明応二年に義材が京都から追放された後も義材に従う。しかし、元信は細川氏の政変を支持して信親と対立する。
明応八年、足利義尹は若狭の武田信親を頼り武田家中を説得しようとしたが成功せず、近江坂本まで進出した。在京していた元信は足利義澄・細川政元に加勢して後土御門天皇を警護し、結果、足利義材の上洛を退けた。
永正四年、細川政元が暗殺され永正の錯乱が起きると、武田信親は足利義尹の幕政の復帰を画策する。これに対し、元信は細川澄元に与して足利義澄を奉じ、野州家の高国と組んだ信親を攻めた。そして、永正十一年元信が信親を討って当主となる。
逸見河内守国清は元信に従わず、永正十四年、丹後守護代・延永春信と共謀して、弟・美作守高清とともに砕導山城に反旗を掲げた。この暴挙は幕府の号令の下、朝倉・朽木の連合軍を援軍に得た元信によって鎮圧される。降伏した国清は、命は助命され逼塞せざるを得なくなった。元光は粟屋宗運に命じて、繁経の子・逸見弾正忠親経の砕導山城を監視するようになる。
元信は隠居を口実に若狭へ下向、若狭守護を元光に譲り、若狭の領国化を進めた。戦国大名若狭武田家の誕生である。
信栄以降の若狭武田家は室町幕府における武田家の在京惣領家である。幕府の信任を得て、武田家累代の官途名伊豆守を名乗る嫡流として屋形号を許された。若狭・丹後は小国とはいえ、畿内に近い。畿内で二国の守護を担う大名は他に、管領家の細川氏――畿内では摂津・和泉・丹波の三ヶ国の守護――と畠山氏――畿内では河内・大和の二ヶ国の守護――以外にはない。このことからも若狭武田家が如何に幕府から信任されていたかが見て取れる。
この頃の甲斐武田家は信虎がようやく甲斐一国を統一し、信濃への足掛かりを模索していた。信賢は死の間際に甲斐武田家の陸奥守にも任じられるほど幕府からの信任が厚い。若狭武田家と管領細川氏との繋がりは元光の父が細川勝元より一字拝領して元信を名乗り、細川政元に与して足利義晴の父・義澄を奉戴したことで特に強くなった。
その後、義稙公が出奔し、高国が足利義澄の遺児・義晴を擁立したことで永正十八年八月、元信・元光父子は高国と和解。元信は若狭の兵を率いて上洛し、義晴を供奉した。元信は在京して義晴を支えることなり、同年十月四日、禁裏御所の修理費五〇〇〇疋を朝廷に献上し、功労により同月廿二日に守護としては異例の従三位に昇叙した。ちなみに疋とは祝儀の時にのみ用いられる銭貨の数え方で一〇〇疋で一貫となる。一貫は一〇〇〇文であった。
元光も兵を督卒するために在京したが、同大永元年末に元信が歿したため、元光は不穏を口実に領国体制を整えるために帰国した。
若狭守護館は小浜の後瀬山山麓にあり、背後に後瀬山城が聳えている。大永二年に築城し、西津より守護館を移した。それに先立って発心寺を建立している。 兵たちが誇りに思うほどの城であった。
「御先代様が御存命なら、さぞ喜ばれたであろうよ」
「ほんに立派な城が出来たものなぁ」
小浜から国境の熊川を経て、近江国の保坂から南に向かうと朽木谷に出る。小浜から朽木のさらに先の京の柳の辻に至るまでを、若狭街道といい、淡海西岸の今津までは九里半越と呼ばれ、若狭の主要街道であった。
そこを一〇〇〇もの軍勢が近江を目指していた。昨日までの雨が街道脇の地面を泥濘ませているが、後五日もすれば立冬で、街道にも天候にも問題はない。