第七服 光発若府(参)
光若府を発つ
詮範の子・兵部少輔満範は、父とは別に丹後守護となり、独自の家臣団を形成。応永六年、大内周防権介義弘が起こした応永の乱で、義弘の弟・新介弘茂を破り、幕府中枢の地位を確固たるものとした。
応永十三年、満範が家督すると、丹後衆と若狭衆が対立し、丹後衆が若狭衆筆頭の小笠原長房の子・出羽守長春と蔵人大夫長頼父子を京屋敷にて捕縛、丹後に監禁する事件が起きた。これを不服として応永十五年、長春の弟で三河小守護芸州家当主の安芸守長正が三河で挙兵。三河幡豆郡で一色軍と交戦し、十二月廿六日には一族郎党と共に敗死した。翌応永十六年一月六日には満範が歿する。家督は次子の五郎義範が継いだ。
義範の家督に不満を持つ小笠原党の支援を受けた長子・次郎持範が家督争いを起こす。義範は持範の勢力を削ぐため、三月、監禁していた小笠原父子を丹後石河城にて自害させた。これにより一色氏の支配圏に守護代として勢力を伸ばした幡豆小笠原家は没落する。
二年後の応永十八年六月十三日、足利義持の斡旋で持範と義範は和睦した。十一月には義範が兵部少輔、持範が式部少輔に任じられ、持範は以後、将軍家奉公衆となった。義範は足利義持を支えて、応永廿二年・正長元年の左近衛中将・北畠満雅による後南朝の乱を平定するなど四職の一人となって幕政に参与する。
永享元年足利義宣が将軍となり義教と改めると、義範は同音の諱を憚り名を義貫に改めた。しかし、丹後・山城・若狭・三河の守護を兼任して有力守護大名となった義貫の台頭を義教に警戒され、度々出兵を拒否したため、永享十二年五月十五日、出陣先の大和にて武田治部少輔信栄に誅殺される。
義教は若狭守護に安芸分郡守護家の武田信栄を、丹後守護には兵部少輔持信の子・五郎教親を任じた。若狭に下向した信栄は一色氏の残党の強い小浜を避け、大飯郡高浜に拠を定める。
信栄は若狭入りに粟屋越中守繁盛・左京亮繁誠兄弟や逸見駿河守繁正・弾正忠繁経兄弟、熊谷美濃守信直・山懸下野守信政らを伴った。同年七月廿三日、信栄が歿し、嗣子がなかったため弟・彦太郎信賢が家督する。
粟屋氏は三方郡国吉に入り国吉城を本拠とし、逸見氏は大飯郡高浜に入り砕導山城を築く。一色氏が丹後と若狭を掌握していたときは丹後水軍として扱われていた若狭水軍であるが、それは若狭湾の西端は丹後国に属していたからであった。武田信賢は高浜を掌握すると、逸見繁正に預けた。
「それにしても宮津や舞鶴の連中が大きな顔をしているのは腹立たしいの」
「若狭の海は元締めが下志万故……致し方あるまいて」
下志万氏は丹後国加佐郡佐波賀の海賊衆である。佐波賀の沖に蛇島と烏島があり、蛇島には七郎右衛門範景、烏島には七郎左衛門景助が居て、丹波国何鹿郡志万庄の出だ。両家は若狭湾を支配し、逸見氏と度々争っている。但し、丹後水軍は隠岐水軍の支配下にあり、但馬の城崎郡奈佐を本貫として山名氏に仕える奈佐日本之介の影響を受けた。
島の多い瀬戸内と違い、島の少ない日本海の海賊衆は陸の領主にも属している。それ故、逸見氏は少しずつ丹後水軍を懐柔、勢力を拡大させた。その勢力は家中一を誇ったが、文明二年の勧修寺の合戦で逸見繁経が討死、駿河入道宗見が後見となって、宗見の女婿・三郎国清が繁経遺児の代理として逸見党を仕切ることになった。文明三年二日には伊豆守信賢が病死し、遺児が幼かったため、足利義政の御供衆であった兵部少輔国信が家督する。
文明六年九月、丹後遠征の主将だった逸見宗見が、幕府の命に叛いて丹後を攻め続けた。そのため、国信は援軍を送れず、結果一色氏の軍勢に包囲された宗見は自害してしまう。宗見・繁経兄弟を相次いで失った国信は剃髪して隠居、宗勲と号し、家督を治部少輔信親に相続させたものの、実権を握った。
文明十三年、宗勲は末弟・刑部少輔元綱と和解、安芸国佐東郡・安南郡・山県郡の分郡守護を取り戻した。