第七服 光発若府(弐)
光若府を発つ
国土の割に人口が多いのは海産が豊かだからで、平城京の頃から「御食国」と呼ばれ、京の食糧供給地になっていた。
渤海国からの使節が越前国気比の濱に寄港し、松原客館に宿泊した後、久々子湖の畔にある古美の松原に泊まり京へと向かっており、畿内ではないが、京に最も近い若狭湾を擁した若狭国は京の外港として発展した。
その若狭湾は越前から丹後に跨がる大きな入り海で、越前国立石半島の敦賀湾、丹後国大浦半島の舞鶴湾、丹後半島東端の宮津湾までを含む。
丹後街道が高浜から吉坂峠を経て舞鶴へ向かっているが、難波江から塩汲峠を通り丹後国朝来を経る迂回路もあった。北は奥州十三湊、南は博多と船が往来し、交易の盛んな土地で海賊の多い土地柄であった。
「それにしても、近頃は海賊どももおとなしいもんだ」
「彼奴等やて元は儂らと変わらんじゃろうさ」
「それもそうやの。陸に出るか、海に出るかの違いじゃ」
海賊というのは、交易を行う傍ら船舶や村への略奪、あるいは逆に金銭を取って船舶航行の警護を組織的に行った沿岸の国人・土豪のことだ。世間からは専ら略奪ばかりしているのだと誤解されている。実際には略奪を行うことはほとんどなく、帆別銭・や警固料の取り立てで生計を立てていた。帆別銭は船ごとに課せられた港湾施設の使用料で、当時の交易船の主流が大型帆船であったため、帆に応じて課したのでこの名がある。警固料は、幕府から公認された日明貿易の警固を担った海賊衆を警固衆と呼んだことによる。日明船だけでなく支配海域で通航する船の警固をして、他の海賊から積荷を守ることを請負った。この警固料がのちの保険の始まりであることは意外と知られていない。
あくまで海の民の武装集団であり、陸地における山賊とは違い、海賊というのは海の武士と言う側面がある。「賊」と呼ぶのは、陸地側の支配規則に従わず、独自の掟と規則によって立っているからであった。若狭の海賊は、丹後水軍の影響下を受けていたが、これは一色氏の支配体制に拠るものだ。
そもそも、室町前期に若狭を治めていたのは一色氏であった。元々、一色氏は足利氏の一門で、一色宮内少輔範氏が足利治部大輔高氏の挙兵に参加。その与力として名を馳せる。さらに、尊氏の都落ちに従って九州に下向。鎮西管領――のちの九州探題を担った。しかし、安定した在地管国を持てなかったため、政治基盤を構築することはもとより、国人の被官化もできず、最終的には九州での勢力を失ってしまう。
貞治の変で同じ一門の重鎮・斯波修理大夫高経――道朝入道――が失脚して越前に下向すると、若狭守護で小侍所別当に任じられていた高経の五男・民部少輔義種も罷免された。この貞治の変は、専横の強い斯波高経と佐々木道誉の対立であり、高経が赤松氏など有力守護大名からも反発されていたため、義詮が高経を放逐した政変である。
空位となった若狭守護に、一色兵部少輔範光が任じられ、守護大名として家勢を回復していくきっかけをつかんだ。
しかし、そこには厳しい現実が立ち塞がる。一つには斯波義種の守護時代に、南朝方だった山名時氏を帰参させるために与えた今富名が守護領に含まれないことであった。守護でありながら領国に所領がほとんどない状態で領国経営を進めなければならなかったのである。
もう一つは、室町幕府成立後、一色範光まで守護が延べ十六人に及び、平均在任は二年未満という状況であったため、国人たちと守護に信頼関係が構築できず、国人は守護に従わず、反抗的な行動を取っていたことであった。
範光は義弟で阿波小笠原氏の在京家当主であった幕臣の蔵人大夫長房を若狭守護代に抜擢、現地に派遣、若狭の領国化を図った。修理権大夫範光と長房は応安の国人一揆を鎮圧して国人勢力の排除に成功する。さらに子の兵部少輔詮範が明徳の乱の戦功で今富名を乞うて許され、ようやく若狭支配の基盤が整った。