第八服 光宿朽館(肆)
光朽館に宿す
対立する一色氏とて若狭国守護職を取り戻そうと細川高国と縁組みをしていた。
丹後加佐郡の由良川以東を領した武田氏は、下志万の海賊衆を従えて若狭湾をほぼ統一した。与謝郡への侵攻は府中の延永春信によって阻まれているものの、由良浜や宮津には海賊衆は居らず、畿内への出兵がなければ丹後攻略を進めたい所である。しかし、一色氏側は丹後半島の向こう側にある久美浜の伊賀氏配下の海賊衆に度々若狭湾へ入寇させていた。後瀬山城の築城と加佐郡の保持は若狭湾の安全を確保するためでもあった。
永正九年に一色左京大夫義有が歿し、近年一色氏と高国の仲は疎遠となっていた。さらに、武田氏が幕府方に帰参した今、付け入る隙もありそうである。
「そろそろにございますな」
「そうか」
勝春の視線の向こうには隅立ち四つ目結――朽木氏の家紋が描かれた幟の立ち並ぶ城館が見えた。
城というと、現代の感覚では天守閣があり、石垣の上に曲輪が張り巡らされている物を思い起こすが、この当時の城は土手が巡らされ、その奥に平屋建ての館があり、それを曲輪が囲んでいるような簡素な造りが一般的で、朽木城は平城であることもあり、現代の感覚でいうと館である。川を濠として使うか、川から水を引いて濠を満たすこともあった。朽木城は南に安曇川、西に北川があるため、南側の正門前に川の水を引いた濠が東西に走る。ここは平時の政庁と領主一族の生活拠点であり、戦になると山城に籠もらなければならなかった。朽木城も多分に漏れず詰城が朽木城の南南西十二町離れた西山にあった。西山城は主曲輪に細く鈎のように曲った北曲輪と、広場のようになった南曲輪を持つ山城で、北に堀切が二重に設けられ、南に堀切が一つ。城戸口は西に向いており、東からは出入りできないようになっている。
どちらの城も余所から来た二〇〇〇もの兵卒らを全員収容出来る筈もなく、上柏の指月谷にある朽木氏の菩提寺である興聖寺に案内された。兵らは寺の外に野営である。初めは元光も兵卒らと共に興聖寺に宿泊する予定であったが、稙綱に館の離れを勧められ、今日だけは世話になることとした。
「彦次郎殿も、大変にござりますなぁ」
のんびりした声を出したのは朽木稙綱である。稙綱は存外細やかな気遣いができるのに、風貌は粗忽者にみえ、中身は風流であるのに容姿は野暮ったさが抜けきれなかった。元光などはそこに和らぎと親しみを感じるのだが、本人はどう思っているのだろうか。
「いやいや、弥五郎殿ほどでは御座らぬよ。近頃は観音寺殿に伺候されているとか」
「ご存知であられたか」
知らぬ筈もない。永正十四年の丹後出兵の後詰に朽木の軍勢を送るとの約定を六角氏綱は武田元信と交わして置きながら、稙綱に断られ続け、それが原因で氏綱を怒らせ、あわや戦端を開きかけた。これは、稙綱から事前に武田氏へ打診があり、元信了承の下の振りである。それが原因で大永二年に蒲生藤兵衛尉秀紀が叛旗を翻した際には八ヶ月にも及ぶ長在陣を強いられた。
「観音寺殿も近江統一を急いでおられるのであろう?」
「上平寺殿も不甲斐ないようで」
京極治部少輔材宗およびその父・京極大膳大夫政経と京極中務少輔秀綱の家督争いが三十五年続きようやく終結した。
この京極騒乱は文明二年に嫡子・京極中務少輔勝秀と当主・京極大膳大夫持清が立て続けに病歿したことに端を発する。持清が勝秀の嫡子・孫童子丸よりも庶長子・乙童子丸を溺愛していた。
孫童子丸には持清の三男・政経と一族の近江守護代・多賀豊後守高忠が、乙童子丸には持清の次男・政光と飛騨守護代・多賀出雲守清直が付き対立。政光と清直は西軍に転じて、六角高頼と和睦、孫童子丸派への攻勢を強めるも、翌三年に孫童子丸が夭折。文明四年九月末に六角高頼・持是院妙椿と連合して東軍派を破り、政経・高忠らは越前へ敗走する。政光が病死し、多賀清直・兵衛四郎宗直父子が乙童子丸を補佐した。