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第32話 雰囲気


 プロジェクターではホーム側のチームの攻撃で、ホームランが出たらしく、店内がドッと湧いた。


「あっ」

 思わず声が出てしまったのは、朝比奈がビジター側のファンだというのを聞いたからだった。


「あー、点取られちゃいました」

 がっくりと肩を落としたところに、フィッシュアンドチップスが運ばれてくる。


 白身魚のフライというか天ぷら、とポテトの盛り合わせだった。


「これって、このまま食べるの?」

「あっ、これです、ケチャップとか、レモン汁とか、酢とか掛けて食べます。俺は、マヨ派です」


 朝比奈が小皿に取り分けてくれる。


「あっ、ありがと」

「いえいえ。これ、好きなんですよ」


「そうなんだ。……これってなんだっけイギリス名物だった?」

「そうです。ちょっと、イギリス行ってみたいですよね」


 朝比奈が笑う。イギリス、と聞いて、思い出したのは神崎のことだった。一生、会いたくない人物ではあった。イギリスに行ったところで、ばったり出くわすことは無いと思うが……。


「あれ、達也さんはイギリスは、あんまり興味ないですか?」

「あっ? えーと……そうなんだよな、ほら、イギリスってあんまりご飯が美味しいイメージがなくて」


 ははと笑う。

「ああ、確かに、三十年くらい前だと『イギリスで一番ご飯が美味しいのは香港』っていう冗談があったらしいですよ」


「え、香港?」

「ええ、たしか……、一九九七年にイギリスから中国に返還されたんですよ、香港って」


 返還、と言われても、いまいちイメージが追いつかない。

 確かに、世界史か何かでやった気がする。


 戦争かなにかでイギリス領になっていた。それが返還されたという話だったか。三十年ちかくも昔のことなのでイメージが付かないが、たった三十年のこと、でもあるだろう。達也は一九九五年生まれだが、達也が生まれて間もない頃、香港は、イギリスだったということになる。不思議なことだ。


「……香港も行ったことないけど、ある日いきなり、今日から、中国人ですっていうことになったのかな、香港の人たち」


「そうでしょうねぇ……」

 それも想像出来ない。例えば、会社で考えたところで、イメージが湧かない。ある日、いきなりM&Aでどこかの会社に買収されて、今日から佐倉企画ではなく、A社です、と言うようなイメージが一番近いだろうか。


 佐倉企画の瀬守です、と名乗っていたのがA社の瀬守です、となる。落ちつかない感じがした。


「ある意味……」

 と、朝比奈が呟く。「女の人って、結婚すると名字が変わるじゃないですか」


「女の人だけに限らないと思うけどな」

「それも、こんな感じなんですかね」


「解らないけど……、今までの人生と切り離される感じはあるかも知れないよな」

 想像出来ないことばかり、朝比奈は言う。


「うん、そうなんですよね、俺も、社内恋愛とか、うらやましいですけど……この間、笠原さんと弓月さん、社内結婚したじゃないですか」


「あー……たしかに」

「あれ、うらやましいなあと思って」


 朝比奈は、ビールを一気に飲み干した。黒ビールだ。そんな風に一気飲みするようなものではないだろうに、とは思った達也は「おい」と制止するが、朝比奈は、さらに注文を追加していた。


「ソーセージと、ビールと……瀬守さんもビール追加しますね」

 達也のグラスは半分くらい残っていたので、慌てて達也も残っていたビールを飲み干す。


「あと、なにがいいだろ。あ、生ハムも注文しよう」

 勝手に注文していく朝比奈を見やりながら、達也は「うらやましいって、社内恋愛が? 面倒じゃないのか?」とだけ聞く。


 達也は、面倒くさい。近場でごちゃごちゃしたくない。仕事ならば仕事に集中したい。仕事中に、ちょっと接触してきたら、誘ってきたり……こんなことは、全部面倒でたまらなかった。


「……だって……」

 と小さく呟いて、朝比奈は、テーブルに突っ伏した。


「お、おいっ!?」

「……だって、俺、社内に、気になる人がいるんですもん」


「えっ?」

 思わず大声を上げていた。朝比奈の交流関係など今まで気にしたこともなかったが、まるで気が付かなかった。


「な、マジで?」

「こういう相談って、……本気じゃなかったらしないですよ」

 ぷう、と朝比奈が頬を膨らませる。酔っては居るのだろうが、言葉は本気らしかった。


「そ……っか……」

「そうですよぉ~。……なんか、最近、瀬守さんも、ちょっと、雰囲気違うから、付き合ってる人とか居るのかと思ってたんですけど」

 鋭い、と達也は背中に冷たい汗が伝っていくのを感じていた。


「別に、俺は、付き合ってるやつなんか居ないよ」

「じゃ、結構、遊んでたりします?」


 さらに、鋭い。どう返答して良いか、迷う。実は、マッチングで出会った相手と適当に遊んでいる………今時、普通のことかも知れないが、相手が男だというのは、知られたくない。


「……俺のことはいいだろうが」

「えー、俺だって教えたんですから、教えてくださいよぉ」

 朝比奈が、教えて教えて、とせがんでくる。酔っているらしい。酔うと絡み酒になるのか、すこし、鬱陶しい。


「教えない……まあ、今は、全く、誰とも付き合ってないよ」

「そうなんだ。なんか、ちょっと、意外です」


 朝比奈が、ポツリと呟く。


「なんで?」

「んー……なんか、瀬守さんって、ああ、笠原さんと弓月さんも言ってたんですけど、なんか、ちょっと、雰囲気が、エロい……? っていうか、色っぽいから?」


「なんだ、それは」

 今まで言われたことはないぞ、と言おうとしたとき、ドキっとした。



『だけどさ、お前、って、なんか、ヘンに男を誘ってるような感じがあるんだよ』

『お前って、そういう、雰囲気があるんだよ』




 神崎と、初めて会ったとき、そう、言われた。

 あの時まで、達也は、男性と、行為に及ぶと言うことを考えたことはなかった。性嗜好としては男性が好きだというのはあったが、学生時代はそこまで進んだことはない。誰かに付き合うにしても、違うエリアの人を選んでいた。けれど、あのまま、神崎に馴らされ、そのまま、神崎に堕ちた。


「……同僚とか、後輩からそう言う目で見られているというのは、ちょっと、気分が悪いな」

 ぽつり、と呟くと朝比奈が慌てた様子で否定した。


「す、す、すみませんっ! そりゃ、不愉快ですよね! ……でも、なんか、そういう感じなんですよ。だから、ストーカーとかには注意してください。俺は、他に好きな人がいるから、安心してくださいね!」


 明るくガッツポーズを取ってみせる朝比奈に、どう返答して良いか解らず、達也は、はあ、とだけ小さく呟いた。



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