「え、マンション購入なんだ、凄いな……っていうか、課長って、給料いいの?」
達也は興味津々に聞く。
「何言ってんだよ、うちの会社はそんなでもないだろ。ただ、俺は、株とか投資はやってるけど」
「そ、そうなんだ……」
同世代で、お金を貯めていると聞くと、つい焦ってしまう。そういえば、将来設計とかは、あまり考えたことはない。
たまに実家から電話があって、いろいろ口うるさく言われるが、それも適当に流して聞いていた。
「課長だからって、……そんなに給料は変わらないよ。手取りは下がったし。ああ、でも、ほら、今仕事してる、会社さんみたいな大企業だと、課長クラスで年報になるから、一千万とか行くらしいけどね」
「えー、そんなに行くの……?」
「うん、行くみたいだよ。役員クラスだと、年報が億だって新聞に出てたけど」
「億……」
想像もしたことがない世界だ。
「一年で、億……って」
「税金で凄い取られるだろうけどね。会社員でも、億を目指すなら、大企業って事だよ。そこまで目指すんだったら、スタートから違うと思うけど」
「スタート……」
「大学選びから、って言う意味。……水野なんかは、億を目指すことが出来る人材だったと思うけどな。実際、そういうルートを生きていたんだろうし……」
ドキッと、胸が跳ねた。
達也にとって『住む世界が違う』と思っている所に、手が届いていた凪に、道を踏み外させてしまったような気分になったからだ。
神崎の所の会社もそうだが、凪が内定を蹴った会社というのも、そういう会社だった。新聞に、人事情報が掲載される会社だ。
「……そ、うなんだ」
「ああ。一体、なんで、うちみたいな中小弱小に来たんだか」
まさか、達也は自分が原因だとは言えずに「さあ」とだけ曖昧に返した。
「たしかに、大企業に入って、役員クラスまで行くってなると、寝る暇もないだろうけどさ」
「そういうもん?」
達也は思わず聞き返す。神崎とは、割と頻繁に、会って、身体を重ねていた。たしかに、やることだけ済ませて、今から仕事と言いつつ戻っていくことも多かったような気はする。だとしたら、ものすごい生命力だ。
「そうじゃないか? 俺らは知らないけど、バブルの時に凄い流行したフレーズがあるらしくて、栄養ドリンクのCMか何かのキャッチコピーだったらしいけど、『二十四時間戦えますか』だってさ」
「なにそれ、怖……っ」
「だよなー、バブルの頃の人たち、体力バケモノだわ」
「そんなの、やってたら一年もしないうちに病むだろ」
「病む前に、過労死だったんじゃないか? 俺の親戚に過労死したオッサンがいたんだけど、奥さんは毎晩旦那の出勤と帰宅を日記に付けて、オッサンは毎日同じコンビニで缶コーヒーを買って帰ったって」
「なにそれ」
「裁判になった時に、会社に提出している勤務表は定時退勤だったりするし、裁判前に書き換えたりされてるだろ」
「怖……っ、なにそれ、人権ないの?」
「本当だよなー、今は、かなりマシになったんだって、意味がわかるよ」
「それでさ、親戚の人はどうなったんだよ」
「あー、死んだけどさ、会社相手に裁判やって、とりあえず、いくらかの和解金は貰ったみたいだよ。でも、缶コーヒーと、奥さんの日記がなかったら、証拠がないって言われてたってさ。今の若い子が、会社の会話、録音しているっていうけど、俺は、どっちかっていうと、自衛には賛成だよ」
「そう、なんだ。まあ……たしかに、そうだよな……」
自衛、という言葉に、なんとなく達也は引っかかった。
凪のように頭の良い人間が、一時の感情で―――運命を感じたのかも知れないが、それだけで、たったそのことだけで、輝かしい将来を蹴るのが解らなかった。
(いや、ちがうな)
自分に自信があるから、きっと、達也とうまく行かなくなったり、関係が終わったとしても、別に構わないのだろう。すぐに、別の所に移動出来るというのがあるのだろうと、なんとなく、そう思った。
それに……。
仮に、付き合うだけならば、同じ会社に来なくても、きっと、偶然を装って再会することは出来ただろう。それならば、もしかしたら、付き合うこともあったかも知れない。それならば、凪にもリスクはなかったのではないか。その可能性は考えなかったのだろうか。なんとなく、それだけが気になった。
会社に戻って、仕事の残りに取りかかりながら、達也は、凪の席を見やった。凪は、外に出ているようだった。最近、あまり、顔を合わせていないような気がする。
(会いたいとか、そういう意味じゃないんだけどさ……)
ただ、凪が棒に振ったものが大きすぎて、訳が分からない気分になってしまっただけだ。
けれど、それは達也が負うものではないだろうし、凪は自分で決めて行動しただけなのだろうから、関係はないのだ。だが、もやもやとした気分になるのは止める事が出来なかった。