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第64話 粗末にしてくれるなよ


 ラウンジでコーヒーを飲みながら、スマートフォンを見やる。

 興水から、連絡が来ていた。


『神崎さんって人と逢いたくないなら、すぐに、帰れ。

 それでなくなる仕事なら、構わない』


 帰れ、と言われたことか、少しありがたかった。仕事のことを気にしなくて良いというのも良かった。

 多少迷ったが、達也は、興水にメッセージを打つ。


『お前、俺らが入社した頃、誰かと付き合ってたって、前に言ってただろ』


『ああ』


『あれが神崎さん。俺は、本気で恋人だって思ってたし、同棲みたいな感じで住んでた時期もあった。でも、神崎さんは、妻子持ちで、俺は愛人だった。それで別れたきりだったから、驚いたんだよ。』


 返信が、しばし途切れた。


『……大丈夫なのか? 神崎さんは、お前の事を騙して付き合ってたようなものなんだろ?』


『何も言わなかったし、俺も聞かなかった。

 だけど、知ったら、付き合えない。それだけ』


 その『それだけ』が、あの頃は死ぬほど辛かった。

 引っ越しをして、離れて、スマートフォンも買い換えて、電話番号も変えた。そうでもしなければ、神崎から、逃げられないような気がしたからだ。


『どうせ、結婚出来るわけでもないし、お互い、都合は良かっただろうし。

 だから、あんまり、気にしないで欲しい。

 もちろん、枕みたいなことはしないから』


『話せるか』


『ムリ。ホテルのラウンジ』


『じゃあ、電話する。聞くだけ聞いててくれ』


 それなら出来るだろ、と興水からのメッセージが届くのと同時に、着信があって、電話に出た。興水だった。


『……俺はさ。お前に、入社前研修の時に、一目惚れしたって話したよな。

 だから、ずっと、お前を見てたんだよ。見てた―――というか、もう、あの通りでストーカーまがいの観察だ。だから、お前の様子がおかしいときは、すぐに解った。

 お前、あの頃、本気で恋愛してただろ。

 ……おそらく、相手と会って、幸せだったんだと思う。浮かれてたし、幸せそうだった。だから、俺は、仕方がないなと思って諦めてたのに、ある日、ぼろぼろになって、表情も死んで、仕事だけやるようになっだたろ。マッチングで男漁りし始めたのもその頃だし……。

 俺は……本当は、凪が現れなければ、お前に、こういうことを告げるつもりはなかった。見ているだけで……まあ、妄想はしたけど、それだけで満足だったし。

 お前がさ、恋愛しなくなった理由が、その神崎さんなら……もう、そいつのことは、忘れろよ。

 連れ込まれそうになったら、タマ蹴って、使い物にならなくしちまえ!』


 思わず、笑ってしまった。可笑しい、のに、涙が出てくる。

 鼻の奥が痛くて、目頭が熱い。


 ハンカチを取りだして、涙を拭う。


 こんなところで、一人で泣いているのは、みっともないが、さすがに星がずらりと並ぶホテルの客は、他人のテーブルを気にするような人は居なかった。


『……達也』


 甘く囁くような声だった。


『お前は、自棄になっているのかもしれないし、恋愛をもうしないと決めているのかも知れないけど……、自分のことは、粗末にしてくれるなよ。

 お前が恋愛で傷ついても、お前の過失じゃないだろ。

 お前で過失があるとしたら、男を見る目がなかったってことだけだよ。……だから、雑にするな、ちゃんと、労ってくれ。

 お前が、もし、神崎さんと、そういうことになったら……合意だったとしても、きっと、お前は流されただけだろうから、俺は悲しいよ』


 涙が、止まらなかった。

 ただ、達也が、ひとつだけ解ったことがある。


 神崎に、逢う必要はないと言うことだった。

 達也は立ち上がる。


 ラウンジの係員がやってきて「お部屋でお休みになりますか?」と声を掛けてくるが、断った。この『お部屋』というのは、間違いなく、神崎の部屋だろうから。


「いいえ、……用事が出来て待ったため、戻らなければならなくなりましたと、神崎さんにお伝え下さい。すみません」


 電話は、繋いだままにして置いた。なんとなく、その方が、言いたいことが言えるような気がしたからだった。


『大丈夫?』


「うん、帰る……今さ、どこだ、ここ……丸の内からうんと遠回りして日比谷に居るんだけどさ、晩飯、一緒に食べない?」

「ちょっと待って……じゃあ……そうだな、お前の宿どこ?」


「えーと、秋葉原」

「解った。じゃ、秋葉原なら、駅ちかくに何か食べる店もあるだろ。そっちに行くよ。達也は、直行出来る?」


「たぶん」

『……日比谷なら一旦、有楽町まで歩いて、山手線に乗ればすぐだから』


「助かる。地下鉄とかだと、迷いそうだった」

『……俺は、飯田橋にいるからさ。アキバの駅の……ヨドバシじゃない方で待ち合わせで』


「ん」

 電話を切ってから、気分が穏やかだった。興水の気遣いがありがたかった。


 さすがに泣いたあとの顔はみっともなくて、ホテルで手洗いを借りて、顔を洗ってから秋葉原に向かう。木曜の夜。東京は、田舎とは比べものにならないくらい、人で溢れている。


 その人混みが、とても、とても遠い。

 なにもかもが、現実感がなかった。


 すっぽかされた神崎は、立腹しているだろうか?

 だが、どうでもよかった。


 ホテルマンは優秀だ。電話の様子が、おかしかったことは伝えてくれるだろう。それに、もし、これで、仕事で嫌がらせをしてきたら、心から軽蔑出来る。


 二度と会わなくても良い。二度と、会いたくなかった。あれは、終わったことなのだから。



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