ラウンジでコーヒーを飲みながら、スマートフォンを見やる。
興水から、連絡が来ていた。
『神崎さんって人と逢いたくないなら、すぐに、帰れ。
それでなくなる仕事なら、構わない』
帰れ、と言われたことか、少しありがたかった。仕事のことを気にしなくて良いというのも良かった。
多少迷ったが、達也は、興水にメッセージを打つ。
『お前、俺らが入社した頃、誰かと付き合ってたって、前に言ってただろ』
『ああ』
『あれが神崎さん。俺は、本気で恋人だって思ってたし、同棲みたいな感じで住んでた時期もあった。でも、神崎さんは、妻子持ちで、俺は愛人だった。それで別れたきりだったから、驚いたんだよ。』
返信が、しばし途切れた。
『……大丈夫なのか? 神崎さんは、お前の事を騙して付き合ってたようなものなんだろ?』
『何も言わなかったし、俺も聞かなかった。
だけど、知ったら、付き合えない。それだけ』
その『それだけ』が、あの頃は死ぬほど辛かった。
引っ越しをして、離れて、スマートフォンも買い換えて、電話番号も変えた。そうでもしなければ、神崎から、逃げられないような気がしたからだ。
『どうせ、結婚出来るわけでもないし、お互い、都合は良かっただろうし。
だから、あんまり、気にしないで欲しい。
もちろん、枕みたいなことはしないから』
『話せるか』
『ムリ。ホテルのラウンジ』
『じゃあ、電話する。聞くだけ聞いててくれ』
それなら出来るだろ、と興水からのメッセージが届くのと同時に、着信があって、電話に出た。興水だった。
『……俺はさ。お前に、入社前研修の時に、一目惚れしたって話したよな。
だから、ずっと、お前を見てたんだよ。見てた―――というか、もう、あの通りでストーカーまがいの観察だ。だから、お前の様子がおかしいときは、すぐに解った。
お前、あの頃、本気で恋愛してただろ。
……おそらく、相手と会って、幸せだったんだと思う。浮かれてたし、幸せそうだった。だから、俺は、仕方がないなと思って諦めてたのに、ある日、ぼろぼろになって、表情も死んで、仕事だけやるようになっだたろ。マッチングで男漁りし始めたのもその頃だし……。
俺は……本当は、凪が現れなければ、お前に、こういうことを告げるつもりはなかった。見ているだけで……まあ、妄想はしたけど、それだけで満足だったし。
お前がさ、恋愛しなくなった理由が、その神崎さんなら……もう、そいつのことは、忘れろよ。
連れ込まれそうになったら、タマ蹴って、使い物にならなくしちまえ!』
思わず、笑ってしまった。可笑しい、のに、涙が出てくる。
鼻の奥が痛くて、目頭が熱い。
ハンカチを取りだして、涙を拭う。
こんなところで、一人で泣いているのは、みっともないが、さすがに星がずらりと並ぶホテルの客は、他人のテーブルを気にするような人は居なかった。
『……達也』
甘く囁くような声だった。
『お前は、自棄になっているのかもしれないし、恋愛をもうしないと決めているのかも知れないけど……、自分のことは、粗末にしてくれるなよ。
お前が恋愛で傷ついても、お前の過失じゃないだろ。
お前で過失があるとしたら、男を見る目がなかったってことだけだよ。……だから、雑にするな、ちゃんと、労ってくれ。
お前が、もし、神崎さんと、そういうことになったら……合意だったとしても、きっと、お前は流されただけだろうから、俺は悲しいよ』
涙が、止まらなかった。
ただ、達也が、ひとつだけ解ったことがある。
神崎に、逢う必要はないと言うことだった。
達也は立ち上がる。
ラウンジの係員がやってきて「お部屋でお休みになりますか?」と声を掛けてくるが、断った。この『お部屋』というのは、間違いなく、神崎の部屋だろうから。
「いいえ、……用事が出来て待ったため、戻らなければならなくなりましたと、神崎さんにお伝え下さい。すみません」
電話は、繋いだままにして置いた。なんとなく、その方が、言いたいことが言えるような気がしたからだった。
『大丈夫?』
「うん、帰る……今さ、どこだ、ここ……丸の内からうんと遠回りして日比谷に居るんだけどさ、晩飯、一緒に食べない?」
「ちょっと待って……じゃあ……そうだな、お前の宿どこ?」
「えーと、秋葉原」
「解った。じゃ、秋葉原なら、駅ちかくに何か食べる店もあるだろ。そっちに行くよ。達也は、直行出来る?」
「たぶん」
『……日比谷なら一旦、有楽町まで歩いて、山手線に乗ればすぐだから』
「助かる。地下鉄とかだと、迷いそうだった」
『……俺は、飯田橋にいるからさ。アキバの駅の……ヨドバシじゃない方で待ち合わせで』
「ん」
電話を切ってから、気分が穏やかだった。興水の気遣いがありがたかった。
さすがに泣いたあとの顔はみっともなくて、ホテルで手洗いを借りて、顔を洗ってから秋葉原に向かう。木曜の夜。東京は、田舎とは比べものにならないくらい、人で溢れている。
その人混みが、とても、とても遠い。
なにもかもが、現実感がなかった。
すっぽかされた神崎は、立腹しているだろうか?
だが、どうでもよかった。
ホテルマンは優秀だ。電話の様子が、おかしかったことは伝えてくれるだろう。それに、もし、これで、仕事で嫌がらせをしてきたら、心から軽蔑出来る。
二度と会わなくても良い。二度と、会いたくなかった。あれは、終わったことなのだから。