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第66話 興水の腕の中


 目覚めた時、安心して、穏やかな気分だった。絶対にここは安全だと、確信があって、暖かな感覚の中、ぐっすりと眠ることが出来た。それは良いが、問題はこれが興水の腕の中だということだ。しかも、上半身が、裸だ。


(え、なに、どういうこと? まって……?)


 昨日は、神崎に呼び出され、訳が分からなくなって、秋葉原の焼き肉屋に行って、たらふく食べたところまでは記憶がある。


(もしかして、俺……脱ぎ始めた……?)

 記憶はないが前科があるらしいので、かなり怪しいのではないかと思ってしまう。


「……ん……、あー、起きたか」


 興水はおおきくあくびをしながら、上体を起こした。するり、と腕がほどけて、温かさが急に抜けていく。


「……えっと。もしかして、俺、なにかやらかし……ました?」


「酔っ払って、アダルトショップの前で大はしゃぎして、親切に、ここまで連れてきた俺のスーツにゲロを吐いたあげく、帰らないでとか言ってくるし、放さないもんだから、仕方がなく一晩ここに居た」


 淡々と告げる興水の言葉を聞いているうちに、達也は、音を立てて血の気が引いて行くのを感じていた。


「そ、それは……本当にすみません……っ」

「ちょっと、シャツ貸せ。……俺はコンビニに行って、予備のシャツ買ってから自分の宿に戻る。何か、メシ買ってくるか?」


「あ、……ご飯は大丈夫……」

「……ったく、この状況じゃなかったら、手ぇ出してたよ」


 一つ忌々しげにチッと舌打ちをして、興水は出て行く。


「なにも、してないんだ……」

 たしかに昨日も、そういう流れに持っていこうと思えば、もっと、雰囲気の良い個室の飲食店で口説いて来ると言うのもあっただろう。だが、興水は、それをしなかった。


 昨日は、達也に寄り添って、ただ、憂さ晴らしの焼き肉に付き合ってくれた。そして、ここまで運んでくれて、一晩、ずっとただ、一緒に居て抱きしめてくれた。


(良い奴過ぎる……)

 ストーカーまがいのことをしていることを除けばの話ではあるが、いい人過ぎて、辛くなってくる。


(俺は、こんな風に大事にされるような存在じゃ……)

 と思った時、昨日の興水の言葉を思い出した。



『自分のことは、粗末にしてくれるなよ』



 それが、ずん、と胸に響く。


 興水は、良い奴だ。そう、達也は、思う。だから、興水に望まれても、達也は、興水に思いを返すことは、出来ない。もっと、違う相手が居ると思ってしまう。


 達也自身が、自分をそれほど尊重出来ていないのに、大切にしてくる―――大切にしようとしている人の傍に居るのは、気詰まりだった。


(ずぶずぶに甘やかされて満足出来るような、人間だったら良かったのに……)


 それで満足出来たなら、きっと、幸せになれた気がする。

 けれど、どうしても、素直になることが出来ない。


「……きっと、興水の言うとおりなんだろうなあ……」

 自分を粗末に。


 いつから、こうなってしまったのか、あまり考えたくはない。恋愛から遠ざかってしまったのがは、神崎との一件のせいだった。であれば、神崎の件を引き摺っているのかも知れないとは、達也も思う。


 神崎に、待っていろと言われたとき、思考が停止するような感覚があった。


(もしかして、俺……まだ、神崎さんのこと、引き摺ってんのかな)


 まだ、神崎に呼び出されれば、ベッドで過ごすのだろうか……?


 そう考えたとき、昨日、まさに、そういう状況だったことに気が付いた。目が、熱くなる。

 神崎は、なぜ、達也に逢いたがったか、よく解らない。


 ラウンジに呼び出して、部屋で話がしたいといったのも、どういう意図があるのかは、解らない。単純に、懐かしがっているだけかも知れないし、また、呼び出して、性欲を処理させようとしたのかも解らない。


(じゃあ、俺は……なんで、神崎さんに逢おうとした……?)

 なんとなく、逆らえないとか、ネガティブな事を思っていたような気がする。


 興水が、枕みたいなことはするなと言ってくれたのに、ホッとしたのだから、神崎には、恋情のために会いたかったわけではないだろう。


「……ふぅ、ちょっと、シャワー借りるぞ。あと、これ、朝メシ。パンと、あと、飲み物。少なくとも、ちゃんと、水は飲め!」


 興水はコンビニから帰るなり、浴室に向かった。程なく、浴室からシャワーの音が聞こえ始める。興水は、コンビニでシャツを買ってきたようだった。それと、達也の分の朝食。


 アキバにコンビニもドンキホーテもあるから、少しトラブルがあっても、大体の事は対応出来る。


 きっと、シャワーから出てくる興水は、いつも通りの興水なのだろう。

(そういや、お礼、言ってないや……)


 昨日は、心配を掛けて、一晩ずっと、手も出さずに付き合ってくれた。

 昨日、安心して、眠ることが出来たのは、間違いなく、興水の腕のおかげだろう。


 興水が買ってきてくれたパンを食べていると、シャワーを終えた興水が戻ってきた。


「……興水」

「ん?」


「……昨日は、ゴメン、助かった……。本当に、ありがとう、迷惑掛けまくった」

 達也が、頭を下げると。ぽん、と興水がその上に手を置いた。


「大丈夫だよ。……まあ、昨日の夜は、ちょっと生殺しだったけどな。見守り系ストーカーは、物理的にはあんまり嫌がることをしないもんだよ」


 興水は笑ってから「本当に、ムリはするなよ」と真剣な声をして、達也の耳元に囁いた。



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