興水は、汚れたジャケットとシャツをビニールに入れて自分の宿まで持ち帰った。
「じゃあ、今日は現地集合で」
と言い残して、その他は何も言わずに颯爽と消えていった、興水の心遣いには感謝しかない。
(クリーニング代……)
そういえば、昨日の、焼き肉代も出していない事に気が付いて、あまりのダメさ加減に、達也は自己嫌悪に陥った。
それでも、まだ、六時。
ここから今日の仕事は、ちゃんとやれる。
神崎が何かを言ってきたら、興水と藤高に相談するつもりだ。そういう意味で、あけすけな相談をすることが出来たのは、ありがたかったかも知れない。
朝食を食べて、シャワーを浴びる。
ようやく、頭が覚醒してきたので、社給スマートフォンから、メールを確認する。
特に、変わったことはない。
神崎からも、連絡はなかったことで、ホッとしていた。
これで、神崎から連絡があったら、正気では居られなかっただろう。
(大丈夫。神崎さんとは、もう、会う機会はない。……あったとしても、誰かについて貰う)
たぶん、興水が一緒に付いてきてくれる。それだけでありがたい。
それに、昨日の夜は、無条件に守ってくれた興水の腕が、本当に胸に甘くて、ありがたかった。
興水に思いを返すことが出来ないのは、申し訳ない。それだけは、胸が苦しくなる。
だから。
「まあ、……あいつ、ストーカーなんだよな」
と、とりあえず、付き合いたくなくなる理由を、一度、確認してみた。
今は、心が弱っている。うっかりすると、興水に流れて行ってしまいそうだった。弱っているところに、付け込まれたら、多分、ついて行ってしまう。
秋葉原から、イベントの行われる会場までは、電車で約四十分。
のんびり電車に揺られていれば、たどり着く。乗り換えがないルートを選んで、秋葉原の宿を手配してくれたのは、凪だった。
興水の宿から、会場までは、乗り換えがある。
割合都心に慣れている興水なら構わないという凪の判断だろう。その代わり、少し、宿泊先は、快適そうな場所だった。
とはいえ、昨日は宿泊も出来なかったのだろうから、それは申し訳ない。
会場で落ち合ったとき、興水は「俺は、宿の朝食ビュッフェ付けて貰ってたから、たんまり朝食を食べてきたよ」と笑いながら言っていて、待遇の格差に、すこしだけ面白くない気分にはなった。
「朝食ビュッフェ……って食べ過ぎない?」
「食べ過ぎるヤツもいると思うけど、俺は、好きな分だけ食べたから」
「ちなみに、何食べたの?」
「んー。クロワッサンと、バターロールと食パン。それに、オムレツと、ベーコンやいたヤツと、オレンジジュースと、シリアルと……」
興水は、大分、健啖家のようだった。
「結構、食うね?」
「まあな~。半分、やけ食いだな」
理由は、聞かないことにした。そして、興水も進んで語ろうとはしなかった。
会場前で待っていると、程なくして、凪と藤高、池田と朝比奈がやってきた。
「おー、おはようございます!」
「うん、おはよう。昨日はお疲れ様でした」
「おかげで他の業者さんと、連絡先も交換出来ましたので、あとで全体に共有しますね」
「よろしくね。じゃあ、会場に行こうか」
会場は、大抵、土日にイベントが行われる都合で、金曜日や木曜日から押さえられている場合が多い。今回は、運良く、何も入っていない金曜日だったので、奇跡的なタイミングだった。
この会場は、企業のイベント、大規模な合同就職説明会、ライブなどが行われるということもあって、稼働率はかなり高い。
「当日は、この建屋ですよね。だとすると、駅から会場までの同線をちゃんと考えておいた方が良いと思います」
とは池田だった。
「実は、今、ここに来るときに、ちょっとスムーズに来られなかったんですよ」
会場の入り口が、一階部分なのか、二階部分なのか解らなかったらしい。
「案内の動員も必要だね。駅から、ここまでの」
「他の業者さんが手配してるかも知れないから、ちゃんと、そこは話を共有させて貰おう」
話をしながら、中へ入る。
いま、自分が来客者だったら。或いは、出展側だったら。それを考えながら歩いていると、思わぬことが解ったりする。
「休憩スペースとか、欲しいかも知れないですね」
「休憩に、パンフレット置き場とか、広告動画とかを見られるような場所って在りましたっけ?」
「意外に、喉が乾いたりするかも」
「入場時、ウェルカムドリンクとして、ペットボトル入り飲料を配布してるイベントもあるみたいですよ」
手元の資料を確認しながら、話を進めていく。
図面と会場側の資料を確認しつつ、途中で会場の担当者と合流して、確認を進めていった。
「そういえば、当日の進行に、追加入りましたよ」
思い出したように、池田が言う。
「追加?」
「……はい。ORTUSヨーロッパの、神崎さんという方が、基調講演されるらしいです。それで、オープニングセッションが、十五分延長になりました」
神崎。という名前を聞いて、心臓がドキッと跳ねる。
「……神崎さん……」
「あれ、達也さん知ってますか?」
「あー……、昔親しくして貰って……」
「あっ、そうだったんですね。凄い人だって聞いてるので、ちょっと、そういう人に会えるかも知れないと思ったら、楽しみですよね」
「普通、芸能人とかに逢ってみたいとか思うんじゃないの?」
興水が苦笑する。
「まあ、今回、何人か芸能人も来るみたいですよね。でも、ほら、そういう人たちの裏側って、あんま見たくないんですよ。夢が壊れたら嫌なので」
池田が豪快に笑うのを聞きながら、背中に、じっとりと冷たい汗をかいているのを感じていた。