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第68話 思わぬ邂逅


 会場見学は、概ね順調だった。

「やあ、達也。久しぶりだね」と神崎が現れるまでは。



 会場の見学を終え、気が付く限りの問題点や導線の注意点などを確認して、自分たちの仕事の範囲とそうでないものをわけ、そろそろ帰るか、というタイミングで、現れたのだった。


 そういえば、昨日ORTUSの菊田に、翌日会場の下見に行くというのは、伝えていたはずだった。それが、神崎に伝わったのだろう。


「神崎……さん」

「昨日は、体調不良で帰ってしまったと聞いたから……、今日は元気そうで良かったよ」


 神崎はツカツカと達也に寄って来て、ぎゅっ、と抱きしめた。


 あっけにとられている達也に、「ああ、すまないね。すっかり、挨拶がヨーロッパ式になったよ」と神崎は笑いながら、背中をぽんぽんと叩いた。


「瀬守の上司の藤高でございます」

「初めまして。ORTUSヨーロッパ支社長、神崎です」

 すかさず、控えていた秘書が名刺を渡す。


「以前に、支社の方に勤務していたとき、達也にはお世話になったことがあって、佐倉企画さんの名前を出したら、今回も仕事を快諾してくださったということで、本当にありがたく思っています。我々にとっても、社運を掛けた一大イベントですからね! ぜひ、よろしくお願いします……ところで」

 と、神崎は一度言を切った。


「……旧知の仲なので、達也とふたりで少し旧交を温めたいのですが……お借りしても?」

 目の前が、暗くなるような感じを味わった。


 まさか、いきなり上司に、交渉して連れ出されることになるとは思わなかったからだ。


「すみません、神崎さん」

 と笑顔で切り出したのは、凪だった。


「なんだね?」


「失礼致します。僕は瀬守の部下で、今年の新人の水野です。お会い出来て光栄です……それで、神崎さん。大変申し訳ないのですが、今、いろいろなトラブルの防止のために、クライアントと二人で会わないというのを徹底しているんです。

 もし、瀬守を連れるのなら、藤高か、興水を同席させて頂ければと思いまして。やっぱり、今時は、コンプライアンスを守っていかないとならないと思いますので」


 実に明るく、空気の読めない新人という雰囲気で、凪が言う。


「ああ、昨今は、いろいろありますからね。確かに、我が社でも、担当が一人で交渉や宴席に当たらないように規則を作るべきかな。水野くんありがとう。じゃあ……」


「昨日、打ち合わせに出ましたので、是非、わたしが」

 申し出たのは、興水だった。


「うん、じゃあ、三人で会食しよう。……残りの皆さんは、今度、打ち上げでも」


「ありがとうございます」

「じゃあ、一緒に」

 神崎に促されたが、達也は凪のところへ向かった。


「助かった」

「……事情は、あとでお伺いします。達也さんの宿、なぜか追加料金、一名で請求が来たのも含みで」


 凪は、顧客の手前、にこやかに微笑んでいたが、目は笑っていない。


「解ったよ。でも、助かった」

 とだけ告げて、神崎の所へ向かう。神崎は、ここへ車で乗り付けたようだった。


 黒塗りの車には、昨日の運転手がいる。

 二度も、この車に乗ることになるとは思わなかった。


 助手席では、秘書が電話でやりとりをしている。

 急遽、二名から三名になったことで、飲食店に連絡を入れているようだった。


「昨日は、体調不良で帰ったと言うから、心配していたよ。連絡先も知らないしね。……達也。プライベートの電話……教えて」

 神崎が、言う。


 後部シート。もう少し考えて乗れば良かったが、神崎と興水に挟まれた真ん中になった。役職的には、コレが一番不自然ではないが、いたたまれない気持ちになる。


「……プライベートの電話番号は、お取引先様には、お教え出来ない規則になっておりまして」

 興水が申し訳なさそうに言う。


「個人的に、親しくしたい場合があるだろう?」


「……その場合は、個人の意思が尊重されますが……、神崎さんほどの、有名人でしたら、我々の個人の携帯電話から、神崎さんのプライベートの番号が万が一でも流出した場合、責任を負いかねますので、出来れば、ご遠慮頂けましたら」


 興水の言葉に、神崎も強く出ることは出来なくなったようだった。


 これは、もう一つ意味がある。

『お前のプライベートの携帯電話番号を外部に流出させるぞ』だ。


「たしかに……、それは煩わしいな」

「ご迷惑をおかけすることにならずに済んで良かったです」

 興水が、にこやかに微笑む。神崎が、苛立っているのが解った。


 実に丁寧に対応する興水だったが、それが、どうにも神崎の癪に障るらしい。


 この二人は、相性がわるいようだった。


 達也としては、興水に助けて貰ってありがたいという気持ちも、勿論あるが、神崎と興水が、達也を挟んで、バチバチと火花を散らしているのが、精神衛生上あまりにも悪くて、胃がキリキリしてくる。


 思わず胃を押さえたのを、神崎は見逃さなかった。

「達也。……胃が痛むのか?」


「えっ? ああ……いえ、そう言うわけでは……」

「なら良いが……」

 心配そうに肩に手を置かれた。そして、耳元に、囁かれる。


「お前に捨てられてからね、わたしは、もう一度お前に会う機会を、ずっと待ち望んでいたんだよ」

 耳を噛まれて、耳殻をぺろり、と舐められた。


「っ!?」

 思わず、びくっと身体が跳ねる。


(捨てる、俺が……?)

 むしろ、捨てられた、だろう。


 どういうことなのだろうと、達也は、混乱しつつ、神崎の左手を確認する。達也と会ってい時間には付けていなかった、指輪が、薬指に輝いていた。



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