捨てた、はずはない。
裏切られた、のだ。
けれど、なにか、掛け違えている。神崎のストーリーの中で、被害者は神崎で、達也は加害者だった。
(なんで……?)
意味がわからなかった。
そして、神崎が何を望んでいるのかも、解らない。
呆然としていると、車が、停車した。
瀟洒な白亜の洋館、という趣の一軒家だった。
「ここは、レストランだよ。……中々雰囲気が良いから、日本に居るときはよく使う」
「違う世界の人って感じがしますよ」
「別にそんなことはないだろう。ここは、普通に、ウェブサイトからでも予約は取れる。一見お断りの料亭とは訳が違うよ」
笑いながら、神崎はレストランへ向かう。
個室に案内され、席に着く。
メニューはすでに決まっているらしく、また、ゲスト用のメニューには、値段は書いていなかった。
「カヴァを開けたいんだけど、二人とも付き合って貰えるかな? 達也は好きだよね」
カヴァは、スペインのスパークリング・ワインだ。
何度か一緒に飲んだことはあったと思うが、ちょこちょこと、親密な様子を入れてくることには、辟易する。
「……俺は好きです」
「俺も、好きですよ。カタルーニャに旅行したときは、飲み過ぎてあたまがクラクラしましたけど!」
興水の言葉を聞いた神崎の眉が跳ね上がった。
「そうなんだ」
「はい、美味しいものが好きなんですよ。あ、俺は、瀬守とは同期なんです。俺の方が先に出世しましたけど」
にこやかに微笑みながら、興水は言う。
「へぇ。達也、あんまり、社内にも友達が居なさそうだったから心配してたけど、今は、うまくやってるみたいだね。良かった良かった……そうだ。丁度、上司なら好都合だ。達也を、引き抜きたいと思ってるんです」
寝耳に水だった。
「えっ、神崎さんっ?」
「……前にね、私がイギリスに行く前だったかな。……達也は、私と一緒に居たいと言ってくれてね。私も、イギリスへ行ってしまったから、どうしようもなかったんだけど……。それなら、せっかくの機会だし、達也が、私の秘書として、世界中どこにでも一緒に来てくれたら良いと思ったんだよ」
神崎の言葉を聞いて、達也は、ぞっとした。
それは、秘書、というより愛人だ。
出張に随行させ、そして、性的奉仕を含んだ形で、神崎に仕えろというのだろう。
「せっかくのお申し出ですが、俺は、佐倉企画の仕事がやっと面白くなってきたところなので、神崎さんの秘書になることは出来ません」
「そう? 給与は、失礼ながら、そちらよりも高いと思うよ?」
グラスが置かれ、丁寧にカヴァが注がれる。淡い金色をしたカヴァの中で、小さな泡が水面へ、すっーっと立ち上っていく。それが、幻のように美しかった。
「神崎さん」
達也は、静かに呟いて、グラスを手に取る。
「この興水は、神崎さんと俺の事情を知ってますから、はっきり言いますが……俺は、あなたの愛人にされるのはまっぴらです。あなたのご家族に訴えられたら溜まりませんしね」
「ああ、妻も公認だよ」
どうにも、倫理観がおかしい。大企業のトップという、極めて特殊な場所に行く人は、考え方がおかしいのだろうか、と達也は首を捻る。
「俺は御免蒙ります」
「なぜ」
「……前に、お世話になっていたとき。俺は、神崎さんの事を本気で好きでした。でも、あなたは違った。僕は、あなたのそれを、裏切りだと思っています」
「ははあ、それで、俺を捨てたのか」
神崎は一気にカヴァを煽った。そういう飲まれ方をする酒ではないのに、もったいないことをする、と達也は思う。
「あなたのことを、捨てたつもりはありませんよ、むしろ、あなたに裏切られたと思っています」
もう一度、同じ言葉を告げる。
「だから、妻も、お前との仲は公認だと……」
「あの時はそれは知りませんでしたし、知ったとしても、結果は同じです。あなたから、離れなければなりませんでした」
それでも、まだ、胸は痛むし、恋をする気にはならない。ずっと、達也は、それを引き摺っている。
「達也。……そう言うことを言うのはやめなさい。お前は、俺とずっといるのが、幸せなんだよ。それに……俺なしで、居られないだろう?」
そういう風に、仕込んだ、と言外に言われて、屈辱感に身体が熱くなる。
「あー、最近は、手軽に、マッチングで会えるので、そういうのは、全く、気にしてないですよ? 妻子持ちなのに、右も左も解らない子を騙して、愛人みたいに囲われるようなことはないですからね」
神崎が乱暴にグラスをテーブルに置いた。
カヴァが、テーブルを汚した。
「マッチングっ?」
「不特定多数の男としてましたけど、何か?」
「そこの男とも寝たのか?」
「冗談じゃない。社内とか、取引先とかで、ごちゃごちゃするのが、面倒なんですよ。どうせヤることをヤるだけなので、もっと、気軽に、サクッと楽しみたいんです。解りますか?」
平然とした顔をして告げる達也を見て、神崎の綺麗な顔が、真っ赤に染まっていく。
「よ、くも……他の男に触れさせたな……」
「あなたのものじゃないですよ、俺は」
「俺だけのものだった! お前も、そうだっただろうっ?」
ダンッ、と神崎がテーブルを叩き付ける。びくっと、肩が震えてしまったが、臆せずに神崎に言い放った。
「……俺は、あの時、あなたが俺だけのものだと思ってました。でも違った、あなたは、奥さんのもので、いまもそれは変わらない。……そんなあなたが、俺が自分のものだと主張するのは、甚だおかしいんですよ。俺はあなただけのもの。なのにあなたはそうじゃないなら、フェアじゃない」
神崎は、ふるふると震えていた。
怒りに震える神崎を余所に、運ばれてきた前菜を口に運ぶ。
丁寧に作られ、彩りよく、いっそ芸術的に盛り付けられて居た前菜だったが、達也は、味を感じなかった。
(たぶん、これ、星とか貰ってるヤツだろうし、美味いんだろうけどさ)
昨日の焼き肉の方が美味しかった。
そう思った時、達也は、立ち上がっていた。
「……俺、こういう料理が似合うような世界観で生活してないんです。チェーン店の焼き肉をビールで流し込んでた方が幸せだったんで、済みませんけど失礼しますね」
「達也っ!」
鋭い声で名前を呼ばれる。けれど、達也は振り返らなかった。
「こういうことで、仕事に影響があっても構わないって、そこにいる、うちの上司が言ってくれましたんで」
「まあ、万が一の為に、会話はずっと録音してたんで」
興水も立ち上がる。今日、興水はジャケットを着ていないが、シャツの胸ポケットに差したICレコーダーを見せた。
「ま、倫理観ぶっ壊れた発言されてましたんで、気を付けてくださいね」
「脅すのか」
「……まーさかー。保険ですよ。何かあったときのために」
じゃあ、と言い残して達也と興水は、レストランから出て行った。