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第117話 嫌がらせ


 立ち飲み居酒屋から、二人で電車に揺られて、一緒に帰宅する。


 向かいのマンションにいる、というのは、帰りが遅いときにはなんとなく心強さがあった。


 誰かに狙われやすい……ということはないのだが、男でも、夜道の一人歩きは、それなりに怖い。


「達也は……、日本酒のほうが好き?」

 最寄り駅から並んで歩いて帰る途中、興水がぼそっと呟くように聞く。


「え? なんで?」

「……立ち飲み屋は、結構美味しそうに飲んでたから」


「あー……」

 原因があるとすると、もつ鍋屋では、凪のことが気になって仕方がなかったというのがあるだろう。だから、飲んでいても、飲みのほうに集中出来なかった。


「多分、今日だしてもらった日本酒が、好みだったからじゃないかな」

 ここで、凪の名前を出すと、また、興水は気を悪くするだろう。だから、適当にはぐらかした。


「そっか」

「うん」


「……俺は―――達也と一緒だったら、どんな酒でも、美味しいと思うな」

「……どんな酒でも……」


「そうそう。……マムシ酒とかでも」

「俺は、それは飲みたくないよ?」


「ははは、俺も飲みたくないよ」

 興水は、多分、酔っている。足取りは、少々、おぼつかない。


「お前、酔ってるな……、大丈夫かよ」

「うん、大丈夫。………とりあえずさ、俺は、お前が無事だったのが嬉しいし、ありがたいと思ってる。これは本当なんだ」


「凪と、お前が助けてくれたんだろ。それは、すごく、感謝してる。俺も―――あの人に、好き勝手されるのは、凄く嫌だと思ってたから」


「うん。……お前は、今まで、嫌な思いばかりしてたんだしさ……」

 ふらふらと危なっかしい足取りで歩いていた興水が、ぴたり、と脚を止めた。


「興水?」

「お前は、もう、恋愛面で、嫌な思いをしないよ。だから、ちゃんと、幸せになれ」


「……興水……」

 興水は、真剣な眼差しをしていた。達也は、胸が、痛くなる。興水は、本心から、心の底から、この言葉を言っているのだ。


「……俺もまだ、立候補してるから……」

「それは……」


「ムリはしないけど、気にはしておいて。俺は、ストーカー気質があるけど、あの人みたいなことにはならないと思うから」


「まあ、お前とか、凪とかは、俺に気を遣いすぎてると思うし……」

 達也は小さく呟いて、歩き出す。なんとなく、いたたまれない雰囲気になったからだ。


「……とりあえず、今の所は、俺は、達也が幸せになってくれる方向だったら、なんでも良いよ。ベストは俺と付き合ってくれることだけど」

 興水が、くすっとわらう。


 なんとなく、心の奥の柔らかいところを、優しく撫でられたような心地になった。くすぐったい。けれど、それは、嫌なくすぐったさではなかった。


(困ったことに……興水って、気は合うし、一緒に居て楽しいし……、嫌いじゃないんだよな)


 それが、フィジカルな欲求に向かうことがないだけで、友人としてならば、最良なのだ。


 だが、それは、興水には告げないことにした。

 そのまま、殆ど無言でマンションまで歩いて行く。道路を挟んだ向かい。


「じゃあ、今日は、ありがと」

「うん、こっちこそ。じゃあ、お休み」


 挨拶をして、自分のマンションへ向かう。マンションのエントランスの所には、集合で郵便ポストが設置してあるが、達也の部屋の郵便ポストに、貼り紙がしてあった。



『淫乱』『消えろ』『ゴミ』『死ね』……




 付箋紙にマジックペンのようなもので書き殴ってある。それが、べたべたと重ねて貼られて居る。達也が思い出したのは、京都の安井金比羅宮にある、形代がぺたぺたと貼られた縁切り縁結び石だった。幾重にも紙が貼られているのだ。


 どうしようかと思って一瞬思案した達也だったが、少し冷静になって考えてみた。


「まあ、現状を保存、写真をとっておく……がベストだな」

 スマートフォンをとりだして、写真を撮る。


(これって、ストーカー、の仕業なのかな……)

 ゴミ漁りから始まって、郵便ポストへの嫌がらせとくれば、次は何だろうか?


 わりとオーソドックスな嫌がらせなので、それほど気持ち的に落ち込むようなものはなかったが……。


「普通に考えて、ちょっと、幼稚だよなあ……」


 『淫乱』『消えろ』『ゴミ』『死ね』というのは、わりと、こういう時に書かれる文言だろう。借金取りならば『金を払え』とか『泥棒』とか、そういう文言が並ぶに違いない。


 ここに書かれた言葉で気になったのは『淫乱』だ。


(わりと、関係ない言葉は書かれていないから……)

 犯人は、達也が、あちこちの男と関係していたのを知る人物ということになる。


(なんで今更……)

 最近は、凪としか夜を過ごしていない。だから、最近の話ではないのだ。この『淫乱』という言葉は。


「しかし……男相手に『淫乱』は凄いよなあ……」


 なんとなく、人に見られたくない言葉だった。達也自身も、色々な男と関係を持っていた過去はあるが……、それを、他人に晒したいかと言われれば、そうではない。


(神崎さんとのことを、知った人……)

 それも、考えられる。


 だが、考えても、相手に心当たりはなかった。



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