久しぶりに、凪と一緒に出掛ける、と達也は感慨深くなった。
仕事でも、一緒に居ることは少なくなっている。
今日は、達也の最寄り駅にあるビストロを予約している。
「……怪我は、もう大丈夫、何だよな?」
「ええ、大丈夫ですけど」
「怪我してたら、アルコールはダメかなと思ってさ」
「この程度の怪我で、抗生物質も化膿止めも、痛み止めも飲んでいないんですから大丈夫ですよ」
凪が「達也さんは心配性だなあ」と言って笑う。
「何でも無いなら良いんだけど……」
「でも、心配してくれたのは、嬉しかったです」
「そりゃ、心配するだろうって……」
なんとなく凪に向けられた笑顔を見ていると照れくさくなって、達也の語尾は、ごちゃごちゃと丸まった。
駅から歩いて少し歩いて行ったところにある、一軒家が、今日予約している店だった。
白塗りの壁は、
「予約の瀬守です」
告げると、空いている席に通される。凪と向かいに、小さなテーブル挟んで座る。
「雰囲気が良いお店ですね」
「そうだな」
実は、この店には来たことはない。『評判が良い』『デート向き』というキーワードで検索してたどり着いた店だった。
淡いイエローの壁紙が、凪の優しい雰囲気に似合う。いつもならば、もう少し柔らかい雰囲気のはずだったが、なんとなく、凪が緊張しているようにも見えた。
「……腹具合は?」
「結構、食べられます」
「じゃあ、気になるものをいろいろ頼もう」
白ワインをボトルで貰って、パテ・ド・カンパーニュ、砂肝のサラダ、それらアツアツのカスレを注文する。
ミネラル分が高めの白ワインは、スッキリした味わいで、少し渋みがある。パテ・ド・カンパーニュの脂を伴った旨味によく似合った。
「美味しいですね。……ワインに、美味しい食事、素敵なお店……周りもカップルだらけだし、デートには、最適ですよね」
凪は、にこりと笑う。それに『そのつもりだ』と返すことが出来れば良かったのだが、達也は、そう返すことが出来なかった。
「……最近、元気がない感じだったから、気になってた」
「ずっと、達也さん、そう言ってますよね」
ははっと凪が笑う。そして、優雅にグラスを手に取って、ワインを一口飲んだ。
「だってさ、なんか、お前……らしくないっていうか……」
「そんなことはないですよ。仕事が立て込んでるから、そう思うんじゃないですかね。……入社して、半年経ったから、やっと、正式配属された感じじゃないですか。やっぱり、そうすると、仕事もイロイロやってみたいことが出来て、充実してて楽しいですよ」
「まあ……」
それはそうなんだが……とは思いつつ、達也は、少し腑に落ちない。
「やっと、仕事が解ってきた……って感じですかね。向いてるかどうかは解らないですけど、仕事は楽しいんです。うまく行かないことが多いのも、ちょっと楽しいですよね」
その言葉を聞いて、なんとなく、達也は、凪の過去について、ほんの少しだけ、理解出来た感じがした。
実は、今まで、凪の過去について聞いたことは殆どない。凪について知っていることといえば、一流企業の内定を貰っていたというのに、それを蹴って、佐倉企画に就職したということだ。そして、それは、達也を追ってきたということ。それが原因で、実家と縁を切っていると言うこと。そのくらいだ。
(こいつって……今まで、思い通りに行かなかったことが、殆どないんだろうな)
それが、難しいことや、思い通りに行かないことに出会って、それを、楽しんでいるというのなら、それは、とても喜ばしいことのように思えた。
「そっか。そりゃ、良い経験だったな」
「そうですか? なんでもスムーズに言った方が無駄がなくて良いと思うんですけど。達也さんって、無駄とかは嫌いじゃないんですか?」
「まあ、メンドクサイのは大っ嫌いだからな……。でも、仕事はちょっと違うだろう。無駄って思っている事の殆どは、本当は大事なことだったりするよ」
「そう、ですか?」
「俺の経験では、間違いなく、そんな感じだ」
ふうん、と凪は、カスレにスプーンを突っ込む。厚切りのベーコンと、白インゲン豆から、もくもくと湯気が立っている。熱々でなければ、カスレはおいしさが半減するが、まだ、熱々のようだった。
「あっ、……これ美味しい」
「だろ。美味いよな。俺も、好き」
濃厚なトマトの味と、沢山の肉類から出る旨味が凄い。ベーコンだけでなく、鶏肉のコンフィと、豚肉の角切りも入っている。ボリュームもたっぷりしていた。
「……これ、クーラーの効いた部屋で、熱々のこういう料理を食べるのって、凄い贅沢ですよね」
熱そうに、口をはふはふとさせながら、凪が言う。
「うん、確かにそうだ」
達也も同意しながらカスレを食べる。あっという間に、ワインのボトルが空いた。
「これなら、きっと、赤ワインのほうが合うと思うけど……どうする?」
「もう一本ボトルで入れましょう」
さらっと、凪は言い切る。たしかに、パテ・ド・カンパーニュといい、カスレといい、白ワインよりも赤ワインが似合う。そして、程なく届いた砂肝のサラダは、グリーンリーフ仕立てのサラダの上に、良くソテーしか砂肝が、たんまりと載っている。ガーリックとオイル、キノコと共に炒めたものらしいが、ソースは真っ黒なバルサミコ酢だった。濃厚で、これも赤いワインのほうが合うだろう。
店員を呼んで、手頃な赤ワインをボトルでもってきて貰い、ついでに、チーズと肉製品の盛り合わせをもってきて貰う。
「あ、赤ワイン美味しいですね」
「そうだな」
楽しく食事をしている凪だったが、なんとなく、違和感がある。話は、それなりに弾んでいる。
「……というわけで、なんか、俺が行く先々に、池田さんがいるんですよ、なんか、生活圏が近くって」
などと笑っているのは、それは良いのだが……。
(何の違和感があるんだろう……)
アルコールが回った頭では、よく解らない。だが、違和感はだんだん強くなっていく。
「あっ、このチーズ……クセがあるけど……良いですね。ちょっと、渋い感じ?」
「えーと……アジア―ゴって書いてあるな。じゃあ、俺は、こっちの貰うか。スティルトン……」
聞いたことがあるようなないようなチーズだなとは思いつつ、口に運ぶ。見ていると、凪は、ブルーチーズを避けていたので、なんとなく、青カビ系のチーズが苦手なのではないかと思っていた。それで、ウッドプレートに載っていたチーズの盛り合わせから、青カビ系のチーズを選んだのだった。
濃厚でコクがある。そして、青カビのチーズらしく、ピリッと来る感じがあるが、かなり美味しいチーズだった。濃厚で滑らかなので、添えられていた蜂蜜を掛けて食べると、より美味しくなる気がした。
「青カビ系は、赤ワイン合うなあ……」
しみじみと呟く達也に、「それってスティルトンですか?」と凪が聞く。
「えっ? そうだけど」
「スティルトン……って、ちょっと前に、ネットで評判になりましたよね」
「美味しくて?」
「違います……なんか、このチーズ食べると、変な夢を見るらしいですよ」
凪が、笑う。なんとなく、ざらつく感じがした。違和感―――が、言語化出来ない。
「変な夢……」
「そうそう。かなりの人が変な夢を見たらしいです。達也さんも、今日、見るかも知れないですね」
凪の言葉を聞いたとき、達也は、違和感の正体に気が付いた。
(あれ……こいつ……一体いつから、目を合わせて喋ってないんだろう……)
凪は、達也の顔を見ていなかった。
いつからだったか、よく解らない。ただ―――大分前から、マトモに、視線が合って居ないような気がした。一気に良いが引いて行くような感じがして、居心地が悪くなる。
凪は、いつも、視線がしつこいくらい―――達也を見てきたはずだった。
(なんなんだ……)
表面上は、前と変わらずに、会話をして食事を楽しんでいる。だが、何が何だか、よく解らない。
「あっ、ちょっと、俺、トイレに行ってきます」
「えっ? ああ……わかったよ……」
一体、何なんだ……と思っていたら、席から凪のカバンが落ちた。慌てて拾って、椅子の上に戻す瞬間、カバンの中に入っていた、封筒に目が行ってしまった。
(………推薦状……、ソラリスコーポレーション……)
ソラリスコーポレーションは、遠田の会社だ。そこに対する、推薦状……。
どういうことなんだと、頭の中を疑問がぐるぐると回っている。
「あれ、どうしました、達也さん」
「えっ?」
顔を上げると、凪が、帰ってきたようだった。うっかり封筒を見てしまったことを、問い詰めるべきかどうか、解らず、混乱する。
「あー、ちょっと、酔った? もしかしたら……チーズかも……」
乾いた笑いを返すと、「じゃあ、お酒も終わった頃ですし……そろそろ行きますか」と凪が、たち上がった。
随分、急だ……とは思った達也だったが、「そうだな」とたち上がった。
会計を済ませて、歩き出す。
凪を、家に誘おうかと思っていたが、なんとなく言い出しずらい。目を合わせないことがなんなのかもよく解らないし、さっきの封筒も、なんだか解らない。
(なんなんだろう……)
よく解らなくなって、駅までの道を二人で歩いている時、不意に、凪が止まった。
交差点だ。駅までいくならまっすぐ行く。達也のマンションは、アンダーパスを通って駅を通り過ぎた先にある。
「達也さん、今日は誘ってくれてありがとうございます」
「えっ? ああ……」
凪は、一度目を閉じた。そして、ゆっくり目を開ける。
「今まで、達也さんに、いろいろつきまとって済みませんでした。達也さん、迷惑そうにしてたのに」
「えっ……?」
確かに、迷惑な部分もあったが……。反論しようとしたのに、口が動いただけで、上手く、声が出なかった。
「……でも、達也さん。俺、反省しました。……達也さんは、結構嫌がってたのに、俺、強引だったですよね。だから―――個人的に会うのは、これて終わりにします」
深々と礼をして、凪は「それじゃあ、おやすみなさい」と言い残して、駅のほうへ歩き出してしまった。
達也は、交差点に立ったまま、しばらく、そこで動くことが出来なかった。