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【第二一三節/エデン到達 中】

 荷解きがひと段落したのを見計らってから、難民たちは各々休息をとり始めた。誰もがそわそわと辺りを見回し、香草茶を淹れることも忘れてエデン到着という現実を噛み締めている。


 娼婦のラハも、そんな一般人のうちの一人だった。


 あまり遠くへ行かないよう注意されていたが、彼女はこの古い都の建物に、どうしても心惹かれずにはいられなかった。


 歴史家でも建築家でもないが、エデンの精緻な建物の数々は、一切素養を持たない者の目にも美しく見えた。


 大通りから離れて、誘われるように小道を進む。両側には背の高い建物が並び、上を見上げると光と闇とが入り混じった煌都特有の空が見えた。


 ふと足を止める。右手側に人一人分の大きさの扉があった。木製の戸は風雨に晒されて朽ちている。鍵も錆びていて、女の細腕でも容易に開けられた。


 入り込んだそこは、かつて飲食物を提供する店だったのだろう。だが酒場と表現するには、いささか品のある内装だった。


 店内を進むと、小さな箱庭へと繋がっていた。かつて椅子や机であっただろう残骸がそこかしこに転がっている。中心には小さな川が流れており、それに沿う形で草花が植えられていた。無論、整備されていない今となっては、好き勝手に生い茂って廊下までも浸食している。


 そんな植物に絡みつかれた残骸の前で、ラハは足を止めた。どうやら大型の竪琴だったようだが、弦は全て錆び落ちてしまっている。台座も同様だが、一部本物の金が使われているのか、錆びずに元の造形を留めていた。


 果たして、この楽器からどのような音楽が奏でられていたのだろうか。最早再現のしようもない。


 しかし、この庭園がまだ賑わっていた頃……ここで過ごした人々の時間が優雅で満ち足りたものであったことは、想像に難くない。


 ラハは、まだ形の残っている煉瓦の上に腰を下ろしそっと目を閉じた。屋根の上から鳥の鳴き声が聞こえてくる。きっと、ここに集った人たちも喧噪を避けることを望んで訪れていたに違いない。


 生まれも育ちも典型的な闇渡りであるラハには、あまりに遠い世界の出来事だ。夜の世界には、息を潜めて静寂に溶け込むか、狂ったような騒々しさに身を任せるかの二つしかない。時として自然の美しさに呑まれることもあったが、それはほんの一瞬のことだ。すぐに現実に引き戻される。悠長に星を眺めている時間などそうそう無かった。


 父親は酒飲みで、母親は口うるさい洗濯婦。天幕の中にはいつも怒鳴り声や罵声が飛び交っていた。


 二人を親だと思ったことは一度も無い。長女のラハは、いつも妹や弟のお守りを任されていた。子供時代など無いに等しい。闇渡りならばどこでも似たようなもので、他の長女たちも同じ思いをしていると知っていたからこそ耐えられた。


 年下の肉親に対してはいくらか愛情があった。自分が十歳の時に生まれた弟が、初めて立ち上がった時は嬉しかったし、おしめを替えるのも苦にはならなかった。二つ下の弟には手を焼かされたし、五つ下の呑気者の妹には腹が立ったが、それでも両親に対する軽蔑と失望に比べれば可愛いものだ。


 そうして他より一歩大人びた娘に育ったラハは自ずと人目を引くようになった。父親は最低の男で、酒乱のために顔形も崩れていたが、元の造形は整っている。その血を継いだラハも闇渡りにしてはなかなかの器量を備えていた。


 そんな娘の成長を見て取った両親は、一致団結して躊躇無く彼女を売り飛ばした。


 いつかそうなるかもしれないと薄々勘づいてはいた。同じ時期に人買いに買われた娘たちも、大体が同じような身の上で、平然としている者の方が多かったように思う。ラハ自身もあっさりと受け入れてしまった。後になって迷いなく他人を出し抜けるようになったのも、こうした経験があったからこそだろう。


 それでも、買われて最初に見た夢には、一番下の弟が現れた。口を開き舌足らずの言葉で「おねえ……」と言いかけた時、目が覚めた。ラハは何よりも、自分が無意識のうちに泣いていたことに驚いた。


 主人が人買いから女衒に変わった後も、忙しさから解放されることは無かった。客を取らされるようになるまでは、下働きとして散々にこき使われる。中には、年増の娼婦からのいびりに耐えかねて自殺してしまう娘もいたが、ラハは苦界の渦中を懸命に生き延びた。


 そのまま娼婦としてほどほどに生き、運悪く穢婆に堕ちない限りは、母親と同じ洗濯婦にでもなっていく……自分の人生はそんなところだろうと思っていた。



 それが今は、エデンの燈台の下で光を浴びている。



 ただ天火を浴びているだけでも大変な贅沢だ。これ以上の安らぎなど、考えるだけでも不遜なことかもしれない。


(でも……あたしは生きて、ここまで来れたんだ……)


 ラハは瞼の裏に、未来の自分の姿を思い浮かべてみる。修繕されたこの庭の片隅で、継火手のように白い服に身を包み、竪琴の音を聞きながら香草茶を傾けている姿を……そんな日が、いつか本当に来るかもしれない。


 生き延びることに躍起になるだけの人生が、より有意義なものに生まれ変わるかもしれない。


 そう思うと、自然と口元がほころんだ。




◇◇◇




「すごいぞプフェル! 入れ食いってのはこういうことだな!」


 サロムが勢いよく釣り竿を振り上げる。先端には大きなますが食いついていた。同じ種類の魚が、すでに五匹も魚籠に突っ込まれている。


「釣るのは良いんだけどさ、針を取るくらいは自分でやりなよ」


 相棒の後ろで呆れたように溜息をもらすが、サロムは一向に気にしない。彼は彼で、陰気な相方の小言に慣れ切っている。


「せっかくエデンに着いたってのに、最初にやるのが釣りっておかしくない?」


「何を言う。アブネルさんから直々にエデンの調査をしてこいって言われただろ? これも立派な食糧調査だ!」


「ふーん」


「エデンは食糧豊富、釣り糸を垂らせばすぐにでも魚が釣れる!」


「そりゃエデンの魚が人間に慣れてないだけでしょ? 今のサロムみたいに、調子に乗って乱獲してたら、いつかは慣れられちゃうよ?」


「わははは、大丈夫! 自然の懐を信じろ!」


「君のそういう大雑把なところ好きだよ」


「好きとか言うな、気持ち悪い」


「あっそ」


 だがサロムの言う通りエデンの豊かさは尋常ではない。今まで生きてきた中で、これほどまでに整った森を見たことは無い。優れた土壌は植物を育み、植物は動物たちを大いに繁栄させる。この川にたどり着くまでにも、野生化した果樹に子供たちが先を争ってよじ登っていた。


 実は救征軍の難民たちの間でも、エデンに着いた後の食糧問題が取り沙汰されていた。もしエデンに到着し大燈台を復活させたとしても、そこが人の住める土地になるまでには時間が掛かる。領土化の目途が立てば、以前とは比べ物にならないほどの支援が受けられるだろうが、いずれにせよ食料を外部に頼ることになる。


 その不安は、エデンの燈台が灯っていたことによって消滅した。今や食事のことで心配している者はほとんどいないだろう。


 プフェル自身もそうだ。これだけ豊かな自然があったことに安堵している。元来、闇渡りは夜の森の中で生きてきた種族だ。こんな美しい森を目にして嬉しくないはずがない。


(じゃあ、何でこんなにモヤモヤしてるんだろ?)


 自問すると、一つだけ言葉に出来る疑問が浮かび上がった。


「ねえ、サロム」


「何だ?」


「エデンの燈台が生きてたのは嬉しいよ。僕らも困らずに済むし。生活もしていけそうだ」


「おお、そうだな」


 サロムは応答したが、ほとんど生返事だった。その背中に向けて、プフェルはぽつりと呟く。



「じゃあ、何でここには人がいないのかな?」

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