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【第二一三節/エデン到達 上】

『粘つく闇に覆われた荒野を抜けると、不意に視界いっぱいに広大な森林が姿を現しました。


 エデンの燈台の光に照らされた木々は、瘴土の中に生える刺々しく歪な物とは異なり、植物本来の曲線や柔らかな色合いを保っています。瑞々しい枝葉の間から差し込んだ木漏れ日は、普段光というものを見慣れていない闇渡りたちにとって殊更美しく感じられるようでした。


 私自身も、久しく燈台の光というものを忘れていたように思います。遥か高みの燈台を仰ぎ見ると、まるで滝のように光が降り注いでいて、目が眩むほどです。


 森林の中を貫く道路は辺獄の道と同様に荒れていますが、石畳を押しのけて顔を出す草花にさえ、どこか趣きがありました。左右の樹上から鳥の鳴き声や虫のさざめきが降り注ぎ、馬車を軋ませる音や、自分の靴音さえ無粋と感じられました。


 どこかに水源があるのか、潤沢な水がそこかしこに小川を形成しています。湿った土の香りは、それだけでこの土地の豊かさを証明するかのようでした。


 このような純粋な自然美の中にあっても、なお救征軍の人々は警戒を解ききれずにいました。今まであまりに過酷な辺獄を旅してきたのです。エデンを包む森の中に入ってなお、どこから夜魔が飛び出してくるのかと恐々としていました。


 その時、不意に叢が揺れ、鹿が首を突き出しました。あの忌まわしい見者ハサイェかと思った兵士が槍を構えるのですが、それは正真正銘、本物の鹿でした。


 人を恐れずに近寄ってきた鹿は、槍の穂先に鼻を近づけ、あろうことか舌で舐めるのです。兵士の後ろにいた女たちがクスクスと笑い声を漏らしました。それをきっかけに、ようやく全軍の緊張もほぐれていきました。


 しばらく進むと木々の密集具合が薄れ、代わりに廃墟が目立つようになりました。


 石灰が多く含まれているのか、人の手を離れて何百年と経ったにも関わらず、依然白さを保っています。煌都の外では珍しくもなく、かえって人骨を連想させる不気味な色合いと思われますが、天火の下で見るとまた異なる印象を抱かずにはいられません。木々や蔦に支配された古い街並みは、それ自体が一つの芸術品のようでした。


 古代都市の景観は実に洗練されていて、建物の彫刻一つとっても、ここがいかに豊かな文化をはぐくんだか伺い知ることが出来ます。意匠には古びたところが無く、男性的で、とことん技を凝らそうという思想で作られたことが分かります。


 しかし、崩れた鐘楼から転がり落ち、錆びついてしまった鐘を見ると、やはりここが失われた街なのだということを思い知らされます。


 市街の全容はまだ分かりませんが、救征軍は、とりあえず大燈台前の広場を居留地に定めました。石像に見守られた大きな噴水が中心にあり、そこから流れた水は、小さな運河となって街中に広がっています。


 男たちは天幕を建て、水汲みに走り、女たちは食事の準備に取り掛かります。彼らは闇渡り特有の逞しさでもって、この旅の中でも恐慌をきたさず完遂しましたが、それでも天火の下で堂々と居を構えることに格別の喜びを感じているようでした。


 宿営の準備が進められる一方で、都市全体の調査のために人が集められました。闇渡りのアブネルは、今までの戦いで常にそうであったように、率先して陣頭に立ちました。他の幹部たちにしても、エデンに着いたからといって油断している者はいません……』



 コレットは一旦筆を置いて、瞼を軽く揉んだ。ほぅ、と息をついて顔を上げると、エデンの純白の大燈台が見えた。


(ついにここまで来たんだ……)


 そう思ってはみるものの、今一つ実感が無かった。


「ついに来ちまいやしたねぇ」


 馬車から書類を運び出していたザッカスも、彼女と同じようなことを言った。コレットよりもさらに小柄な彼は、燈台を見上げるだけでも一苦労で、「いてて」と言いながら腰をさすっている。


「……ちょっと信じられませんぜ。俺はつい半年前まで、うだつの上がらない三下闇渡りだったんだ。それが今は、エデンなんて伝説上の土地にいるんだから……」


「それは私も同じです。ほんの三ヶ月前は、サラベルジュ学院の図書室に籠り切りになってたんですから」


「お嬢もずいぶん逞しくなりやしたね」


「ありがとうございます」


 そう答えつつ、コレットは「本当にそうだろうか?」と自問する。確かにいくつもの戦いや旅を通して、過酷な現実そのものに随分と慣れたような気がする。慣れというのも、強みの一つであろう。昔は他人の傷口を直視することも出来なかったし、ましてや負傷者に包帯を巻くような技術など持ち合わせていなかった。


 今でも、自分の実感が現実に追い付いているとは思えない。こうして手帳に文章を残していたのも、エデンに到着したことを己に言い聞かせたかったからだ。お陰でずいぶん酷い走り書きになってしまった。またザッカスに清書してもらわなければならない。


(……あの人は)


 ふとカナンのことを思った。この遠征を主導し、皆にエデンという夢を見せた人物。彼女は誰よりも強く、ここにたどり着くことを願っていたはずだ。


 カナンは、本部となる天幕のすぐ傍に立っていた。他の幹部たちが集まってくるのを待ちながら、じっとエデンの大燈台に視線を向けている。


 だが、その顔に浮かんでいる表情は、コレットが予想していたものと大きく異なっていた。


 燈台を見上げるカナンの瞳に、喜びや安堵の色は全く見えない。むしろ徹底的な透徹さだけがあり、その透明な視線が、殊更にある種の威圧感を醸し出している。


 威圧というと、これほど彼女に似つかわしくない言葉も無い。誰に対しても必ず対等の立場で接するために、誰の緊張もほぐしてしまうカナンが、今は周囲の緊張感の原因になっている。何より、カナン自身がそのことに気付いていないようだった。


(カナン様……?)


 コレットに見られていることに気付かないまま、カナンは目を閉じて小さくかぶりを振った。天幕の中から呼ばれて「今行きます」と言い、踵を返した。だが、表情が見えなくなっても、やや丸くなった背中は彼女の憂鬱を語っているかのようだった。

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