黒い軍服に包まれた屈強な身体、はためく外套、やや老けて見える銀色の髪、せいぜい十人前の顔立ち。そこに立っているのは、まぎれも無くエルシャの剣匠ギデオンだった。ユディトの従者としてほぼ毎日顔を合わせてきたイザベルには見慣れた相手である。
彼の強さは知っている。ラヴェンナの決闘を観戦していた者ならば、子供でも理解出来るだろう。ギデオンは「負けた」と言いふらしているが、それが謙遜であることは誰の目にも明らかだった。
紛れも無くエルシャの最高戦力であり、この上なく頼もしい存在であるはずだ。
だが今はどうしてか、良く見知ったはずの彼が、どこか遠い世界の住人のように思えた。
もしかすると、手に持っている剣がそう感じさせるのかもしれないと疑った。エルシャの聖剣エルバール。刀身の全てをオレイカルコスで構成された、あらゆる剣の頂点を争う一振りである。
しかしそれも違う。たかが剣だけで感じ方が変わったりはしない。
目の見える部分では何一つ変わっていないというのに、肌を刺すような緊張感が周囲を包んでいる。それは、あからさまな怪物を目の当たりにするよりも、ある意味恐ろしいことだろう。今まで理解していると思っていた人間の中に、自分の知らない何者かが潜んでいるという恐怖感。
その恐怖感故に、イザベルは自分でも意識しない内に、彼に向かって剣を突きつけていた。
「その動揺では戦えまい。他の部隊も後退している、お前たちも下がれ」
「あ……」
ギデオンの手がイザベルの剣を押し下げる。指から自然と剣が零れ落ちた。同時に、腕の中で荒い息を吐いているイザベラの存在を思い出した。
イザベルは妹を背負い直すと、すぐさま踵を返して駆け出した。ほとんど逃げ出すような速度だったが、自分が夜魔から逃げ出したのか、それともギデオンから逃げたのか、本人にも良く分からなかった。
ギデオンには何の感傷も無かった。彼の意識はすでに前方へと向け直されている。
物陰から、建物の上から、あるいは道路を一直線に、あらゆる種類の夜魔が襲い掛かってくる。別の兵士を手に掛けようとしていたものすら、その動作を中断してギデオンに向かった。意識など持たないはずの怪物たちが、今は確かに一つの指向性に支配されていた。
「面白い」
その時ギデオンは、自分が嗤った事実に気付いていなかった。
押し寄せる夜魔の津波に向かって、ギデオンは一切の迷い無く突撃した。
どのような剣の達人であっても、一人で軍勢を相手取って戦うことは出来ない。いかに腕の差があろうと八人が限界と言われている。ましてや敵は人間よりも頑強な存在であり、数においては比較も出来ない。
それにも関わらず、夜魔の爪や武器がギデオンに触れることは無かった。
己に向けられるいずれの攻撃よりも素早くギデオンは剣を振るった。敵と敵の間隙を突いて潜り込み、押し潰される前に灰に変える。天火を蓄えられたエルバールは難なく夜魔を裂き、ほとんど何の手応えも残さない。まるで自身の腕の延長であるかのように自在に動く。
あるいは敵の腕を掴み、身体理法を応用してほとんど力を込めずに相手を転倒させる。勢いをつけて突進してくるものに対しては、腕すら使わず姿勢と肘、肩の動きのみで受け流す。たとえ敵の来る位置に剣が向けられていなくとも、ギデオンにとっては大した問題ではない。
金色の残光が
「ほう?」
ある直感から、ギデオンは柄を両手で握り構えた。眼前の夜魔を薙ぎ払うのと同時に天火を放出させる。
斬撃と同時に放たれた天火が、三日月のような弧となって飛翔した。後方から迫っていた十数体の夜魔をまとめて両断し、そのさらに後ろの廃墟を破壊してようやく消滅する。
「成程、飛ぶ斬撃か」
一度感触を掴むと、あとは彼にとっては簡単だった。上空から迫るティアマトですら簡単に迎撃出来る。
(果たして剣技と言えるかは怪しいが……)
放出と停止。この二つの要素を抑えるだけで、戦いは格段に楽になる。さすがにこの量が相手だ。手を抜けるところは抜かなければ、最後までもたない。
ギデオンは勝利するつもりでいた。当然のことと言えばそうだが、この戦況で未だに勝利を信じられる者は彼以外に誰もいない。
更に言うならば、彼にとっては勝つか負けるかなどという結果論などさして意味を持たなかった。
ただ戦うことだけが重要なのだ。結果など、闘争という時間の果てに現れる一つの様相でしかない。彼にとって勝利も敗北もその程度のものだった。
無論、常人の思考ではない。
ギデオンの中には、依然として己の暴走した戦意を自覚している箇所が残っていた。身の回りの何もかも焼き尽くされて、なお脇目も振らずに戦い続けるのは戦士などではないと。
だが、戦いに歯止めを掛けようとする自我を押し潰すほどの欲望が、彼を突き動かしていた。
(ずっと憧れていた。退屈など無い世界に。階級だの名誉だの、余計なしがらみに縛られて腐っていくだけの日常に、飽き飽きしていた)
英雄になりたいと思ったことは無い。剣匠と呼ばれて嬉しく感じたことなど一度も無かった。煌都という虚飾の砦の中で与えられる物は、何もかもが虚しかった。
どんな褒美も栄誉も、自分が本当に欲しい物にはかすりもしない。
ただ、己の手の中にあるエルバールの如き、美しい剣に成りたいと願って生きてきた。天賦の才の上に、さらに研鑽に次ぐ研鑽を重ねて、鍛え上げられた鋼のように在りたかった。そしてそれが実現されるのは、多種多様な思惑が交差する煌都などではない。より純粋に、剣と敵のみのある場所でしか成立しないのだ。
まさに、今この時のような。
「戦っていたい……そうだ。
崩れた城壁を乗り越えて、五体のネフィリムが侵入してくる。いずれも右腕を巨大な剣に変化させ、一斉に驀進するギデオン目掛けて振り下ろした。
衝突と同時に大地が揺らぐ。それが何度も続いた。元から脆くなっていた廃墟が振動で倒壊し、逃げ惑っていた兵士たちの上に降り掛かる。女子供のように泣き叫ぶ者さえいたほどだ。
それでもネフィリムたちは飽き足らず、何度も繰り返し剣を叩きつける。魚屋が活きの良い鮮魚を絞める時のように念入りに。しかしそのいずれの攻撃も、ギデオンは潜り抜けてしまった。
エルバールを上段に構え、内部の天火を励起させる。咆哮と共に振り抜くと、刀身から光の刃が噴き出し、その間合いを何十倍も延長した。
五体のネフィリムが纏めて薙ぎ払われ、他の戦線にまで灰交じりの風が吹き寄せた。
遠目に彼の戦いを見ていた兵士たちが一斉に湧き立った。崩れかけていた戦意が持ち直し、夜魔に向けて再び武器を構える。
ユディトにとっても好機だった。敵の攻撃は明らかに軟化している。部隊の再編と負傷者の搬送も、今のうちにやってしまわなければならない。
彼女の居る本陣は、すでに貧民街の入り口付近まで押し下げられていた。市街と市街を隔てる小さな壁はあるのだが、城壁がもたなかった以上、この程度の障壁も問題にはならないだろう。
ここを突破されれば、いよいよ夜魔の軍勢が市街地に雪崩れ込むことになる。それだけは絶対に避けなければならない。
しかし、胸の内のざわめきを鎮めることは、どうしても出来なかった。いくら必死になって指揮を執ろうと、ギデオンのことが気に掛かってならない。可能ならば、今すぐにでも彼の下に向かいたかった。
(……でも、私が行っても足手まといになるだけ……今は他にしなきゃいけないことだって……)
ユディトは己の脚に言い含めるつもりで、何度も同じ考えを反芻した。
「タマルさんの隊は引き続きティアマトの迎撃を! 第八小隊と第九小隊は、連携して負傷者の後送を援護!」
その負傷者の中に、ぐったりとしたイザベラと、妹を抱えて自失しているイザベルの姿を見た時は、さすがのユディトも蒼くなった。
「ゆ、ユディト様……! イザベラが……!」
「っ、すぐに後方へ! 貴女もついていてあげなさい」
すでに後退する部隊は相当な数に膨れ上がっている。元々ここにいた兵士たちはもとより、ユディト配下の街道警備隊士たちも半数近くが負傷していた。壊滅した隊も多い。そこへきて継火手の負傷である。ギデオンの活躍で一時的に士気は上がっているが、そう長くはもたないだろう。
(……やっぱり、これだけの数では……)
すでに援軍要請は何度となく出している。だが、返ってくる返事はどこも「手一杯」で共通していた。
だから、整った身なりの伝令兵がやって来た時、ようやく上層部が重い腰を上げたのだと期待した。だが、届いたのは別の命令だった。
「本陣へ召喚!? この状況下で!?」
「大祭司のお歴々より、直々に仰せつかっております。どうかユディト様には一度帰陣していただくように、と。戦局全体に関わる命令故、必ず一人で起こし下さい」
「出来ると思っているの? ここが全軍の防衛線の要なのよ。援軍を寄越すどころか、指揮官を現場から抜けさせるなんて……!」
ユディトの言っていることは至極真っ当だが、相手には通じなかった。伝令兵が片手をあげると、背後に控えていた他の騎士たちが槍を地面に打ち付けた。
「これは命令です。従っていただけないなら、強制的に連行します」
やれるものならやってみろ、と言いかけた。
だが、ここで下手に仲間割れを起こすわけにはいかない。他の兵士たちも見ているのだ。本陣との不和が知れれば、一気に全軍の崩壊へとつながりかねない。
従う他無い。ユディトは周囲に聞こえるよう、大きく舌打ちした。伝令を睨み付ける視線は氷のように冷たく、人どころか馬までもが怯んだようだった。
「……タマルさんに、指揮をお願いするよう伝えて下さい。必ずすぐに戻ります」
部下に言い残すと、ユディトは自分の馬に飛び乗った。行くと決まれば、少しでも時間が惜しい。さっさと話を聞いて戻ってこなければならない。
戦場を離れるのは辛かった。一度だけ前線に目をやり、そこで依然金色の光が躍っているのを確認する。文字通り後ろ髪を引かれるような心持で、ユディトはその場を去った。
◇◇◇
ギデオンの周囲から敵が消えた。エルバールの間合いに入るのを恐れたかのように、遠巻きに彼を包囲している。
(夜魔でも恐れるか? いや……)
夜魔の群れの一部が割れて、そこからグレゴリ以上の大きさの個体が姿を現した。全高三ミトラ。右腕は巨大な剣と一体化し、頭部は竜や鰐を思わせる。眼窩に埋め込まれた無数の赤い目が、確かに喜悦の色を滲ませていた。
牙の並んだ口が開いた。
『相も変わらず大した化け物ぶりだ。恐れ入るぜ』
その声には、夜魔特有の錆びた歯車が軋む音、蝗の羽音、しゃがれた女の呻き声が入り混じっていたが、確かにある男の声音も含んでいた。
「貴様こそ、ようやく正真の化け物と成り果てたようだな。ホロフェルネス」
かつて千傷のホロフェルネスと呼ばれた夜魔は、人間離れした顔面で、人間そのもののように嗤って見せた。