天幕の中心に置かれた寝台の上で、母親になったばかりのマリオン・ゴートは、茫然と天井を見上げていた。
すぐ傍では宮廷女官たちがいそいそと手を動かしている。出産を終えたばかりの女性を慮ってか、あるいはいつもの女王の癇癪を恐れてか、積極的に声を掛けてくる者はいなかった。どちらにせよ、今のマリオンにとってはそちらの方が助かった。そっとしておいて欲しかった。
継火手として生まれてきて十九年になるが、「熱に浮かされる」という表現をはじめて体験している。目は常に潤み、頭の中は朦朧として何も考えがまとまらない。まるで浅い眠りの中で見た夢のように、今までの時間経過が抜け落ちて、断片としてしか残っていなかった。
ただ、人生の中でかつて経験したことの無い肉体的苦痛を味わったことだけは確かだった。下腹部の痛みは、頂点の時ほどではないものの、常に締め付けるように疼き続けている。産んだらすぐにお腹も平らかになると思い込んでいたが、まだ我が子がいた時と同じように膨らんだままだった。最高級の掛布団を載せてもらっていても、自分の腹の形ははっきりと分かる。この数か月間、ずっと疎み続けてきた姿のままだった。まるで誰かに「お前は死ぬまでずっと母親なのだ」と言われているかのように思えた。
マリオンは左側に首を傾けた。汗を吸った前髪が目に掛かった。それをかき上げる元気も無かった。
視線の先に、小さな、しかし贅を凝らした揺り籠が置かれている。その中に、小さな命が一つ、すやすやと寝息を立てていた。
つい先ほどまで大声で泣いていたことを思い出した。乳母から母乳を貰っていたことも、男の子だと告げられたことも。だが、彼女はその一切を無感動に聞き流していた。正確には、身体の痛みのために思考能力が飽和して、何かを感じる余裕さえ持てなかったのだ。
そして今、安らかに眠っている我が子のくしゃくしゃの顔を見ても、マリオンの中に喜びの感情は湧いてこなかった。
ただ、申し訳なさだけがあった。
こんな自分の血を継がせてしまったこと。安らかざる世界に産み落としてしまったこと。あまりに無邪気な寝顔を見ていると、そこにどんな絶望が上書きされていくのかと心配になった。
「……なさい」
久しぶりに発した言葉は、あまりに小さすぎて誰の耳にも届かなかった。
その時、天幕の入り口が開けられて、黒い外套を纏った人物が静かに入ってきた。片手には棚型の薬箱を、もう片手には茶器の入った籠を提げている。女官たちはさっと顔色を変えたが、朦朧としているマリオンは気付かなかった。
人影は、女王と王子の間に来ると、しずしずと敷物の上に膝を折り、地面にその額を触れさせた。
「女王陛下、ご出産、誠におめでとうございます。卑小卑賎の身であり、畏れ多いことではありますが、謹んでお祝い申し上げます」
普通なら喜ぶべき場面だが、今のマリオンに「祝う」という言葉は禁句だった。
マリオンは跳ね起きるや否や、天幕の中にいる全員に向かって「出て行け!!」と絶叫した。
「出て行け……出て行け! 早く出て行きなさい!!」
母親の大声に眠りを妨げられた王子が、それに負けないくらいの大声で泣き始めた。その声が余計にマリオンの神経を昂らせる。危険を感じた女官たちは王子を抱き上げ、あやしながら、命令通り天幕の外へと出て行った。
赤子の声が徐々に遠ざかっていき、代わって静寂の度合いが増していった。いつしか、大きく肩を上下させる自分の呼吸音が、この場で最も大きな音になっていた。
それを遮るかのように、茶器の触れる小気味の良い音が響き渡った。
マリオンの血走った目に危険な閃光が走った。常人ならば身の危険を感じざるを得なかっただろう。現に彼女は、手元にあった水差しに無意識のまま手を伸ばしていたのだから。無論、中の水を飲むためではない。
しかし、それを目の前で蹲っている者に振り下ろすことはなかった。
深くおろされたフードに隠れて、顔は見えない。あるいは決して見せないための配慮なのだろう。衣から突き出た手首より先は、新品の包帯が幾重にも巻き付けられている。マリオンは到底知り得ないことだが、これは自らを穢婆と自認し名前まで捨て去った彼女たちの取り得る、最上級の表敬だった。
無論、そんな彼女たちの儀礼も、マリオンには解し得ないことだ。
「なんて……っ!」
穢らわしい。そんな言葉が口から出かかった。
だが、暴言が飛び出すのを引き留めたのもまた、マリオン自身の意思だった。
何故、闇渡りの中に穢婆と呼ばれる者たちが現れてくるのか、宮廷育ちのマリオンとて知っている。不衛生な環境下で不特定多数と性交渉を行えば、一定数の梅毒患者が生じるのは当然の帰結だ。そして感染症に罹患した者を隔離、差別し、共同体の中でそれ以上の蔓延を防ぐのも、冷徹ながらある種の知恵ではあるのだろう。
人々が穢婆を忌み嫌うのは、彼女たちが病を持っているからだが、それは娼婦という背景があればこそだ。卑しい仕事をして己の身を損なった者というのが、穢婆が蔑ろにされる理由なのである。ごく少数の例外を除き、このツァラハトという世界においては、彼女たちを差別する者たちこそ多数派なのだ。
しかしマリオンは、その少数派の一人だった。
正確には、今この瞬間に、その少数派の一人と化したのだった。
マリオンは思う。自分と彼女たちの間に、一体どれほどの違いがあるのだろうと。なるほど穢婆たちは身分卑しい娼婦であったかもしれない。金で己の身を切り売りしてきたのかもしれない。
だが、それなら自分は一体どうなるのか。
望んでもいない責務を押し付けられ、愛してもいない男を夫として据えられ、そして愛する自信のない子を産まされた。
その間、自分が自己の意思でもって実行したことが、何か一つでもあっただろうか? ただ成り行きに流され生きてきただけではなかったか? それならばむしろ、自らの生活のために身を削る覚悟をした穢婆たちの方が、何倍も上等な存在ではないのか?
考え始めると止まらなくなった。ただでさえ不安定な精神状態がさらに揺らぎ、マリオンは水差しを振り下ろす気力さえも失った。何とか上半身は起こしたままだったが、虚脱して一片の力も湧き起らない。
マリオンの中で静かな、しかし劇的な変化が進行していた間も、穢婆の長老は黙々と茶の準備を進めていた。女王が水差しを振り上げた際も、微動だにしなかった。それをぶつけられて死ぬとしても、一切悔いも恨みも無かった。ただ無心に湯を沸かし、急須に秘伝の香草茶葉を入れて、湧き立った湯を注ぎ込んだ。
急須の口から白い湯気が立ち上り、玄妙な香りが昂っていたマリオンの精神を落ち着かせた。抽出が終わるまでの間に、穢婆は籠の中から、羊毛でくるまれた茶碗を取り出す。
取っ手のついていないその茶碗は、ラヴェンナではあまり見ない類のものだった。女性の片手に乗る程度の大きさといい、茶を飲む以外の用途は全く考えられていないような作りだ。持ち運ぶことを考慮してかやや厚めの仕上がりではあるものの、そこに描かれた装飾は、思わず心を動かされるような可憐さと繊細さを併せ持っていた。
表面は黒みがかった藍色だが、器の内側には白や寒色の花々の絵が散りばめられている。縁には金箔が張り付けられていて、その部分が器全体に華やかな印象を与えている。
一目見て、マリオンにはその器が、夜の世界を表現したものなのだと分かった。金箔の張られた縁は月を表し、月光の輝きの内側にいくつもの花々を内包している……とりもなおさず、闇渡りの女性の目線で見た、最も美しい世界の在り様なのだろう。
そんな理想化された世界の表象を、穢婆が持っているという現実自体、悪意ある皮肉のように思えなくもない。そして穢婆たち当人も、そのことに無論気付いていただろう。
だが、気付いてなお持ち続けることにこそ意味がある。これこそ、世界が夜に包まれて以来、無数に生み出されてきた穢婆たちの、声なき抵抗そのものなのだから。
長老は十分に色が染み出たのを確認してから、急須を持ち上げて中身を器へと注いだ。花々の絵に薄紫の香草茶が上書きされて、それまでと異なる表情を作りだした。
「我らの心ばかりの進物にございます。どうかお召し上がりください」
穢婆は恭しく頭を垂れ、器を自分の頭よりも高い位置へと差し出した。
普段のマリオンならば無碍に払いのけたことだろう。だが、今の彼女にそういった無体な考えはなかった。彼女は自分でも驚くほどに自然と、その月と花々の器を受け取った。