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【第二二七節/夜明けへの進軍 六】

 三人を乗せたユランは負傷や疲労など無いかのように、その大きな翼に風を抱き寄せ軽々と戦場の上空へと舞い上がった。


 慣れているクリシャはともかく、上昇の際の負荷や独特の感覚はイスラとカナンにとって未知のものだった。シムルグの飛翔が風に寄り添うものとすれば、竜のそれは掴み掛かるかのような強引さがある。


 大気に頭を押さえつけられていたかと思えば、その感覚が嘘のように消失し、締め上げられていた血管から一気に血液が開放される。立ちくらみに似た感覚が収まった時、カナンは戦場を遥かに見下ろす位置にまで連れ去られていた。


「アラルト越えの時を思い出すな」


 風に交じって、イスラのそんな独白が聞こえてきた。確かにそうかもしれないな、とカナンは思った。風読みや操蛇族ならともかく、この世界の人間にとって空を飛ぶことはさほど日常的な体験ではない。


 無論、状況はあの時よりも一層深刻だ。眼下を埋め尽くす夜魔の群れから発しているのは、溶岩流を連想させる赤い眼光の明滅だ。そして今から向かう先には、雲に触れるか否かという距離まで昇ってなお巨大に映るセリオンがいる。


(そして、待っているのは……)


 カナンはふと、目覚めてからセリオンに向かうまでの過程が、旅に出たばかりの頃……自分とイスラの二人きりで冒険をしていた頃に似ていることに気付いた。走り回り、飛んだかと思ったら地下に下って強大な敵と戦った。


 ベイベルとの邂逅を経て、自分たちの旅は決定的に変質していったのではなかったか。絶望と圧政の象徴であった黒い天火を打ち破ることによって、カナンは希望と変革を触れ回る奇跡の担い手と目されるようになった。イスラと二人で並んで歩いていたはずの旅が、後ろに大勢の人々を従えて、あたかも新しい牧草地に向かう羊飼いのような旅路へと変わっていった。


 カナンは自ら状況の設定者となったことはない。状況に流されていたという点においては、彼女は他の大多数の人々と違わない。ただ、彼女に、状況に適応する柔軟さと責任感があっただけだ。


 それはきっと、この戦いが終わった後も変わることのない図式であろう。この繰り返しを越えた先にあるのは、果たしてどのような状況であろうか。


 カナンは想像する力を重んじる人間だが、人知を超えた状況の、その向こう側までも予測することは不可能だった。結局のところ、どんな力が宿っているにせよ、どういう意図で創られたにせよ、自分は人間の枠を出ない存在だ。


「……でも」


「どうした?」


 カナンの呟きに気付いたイスラが、彼女の耳元までずいと身体を乗り出してきた。恐らくは無意識であろう彼の無造作な仕草に赤面しつつ、それを誤魔化すように咳払いを一つ挟んだ。


「いえ。少し考え事を」


「何をだよ」


「継火手の……いえ、私の蒼い天火についてのことです」


 シオンや、エデンの樹との戦い。明かされた真実。エマヌエルとの対話。そして何より、ベイベルという特異点の存在。


 それら全ての証拠が、彼女にある仮説をもたらしていた。


「イスラ。今まで私は、この力の本質について考えたことがありませんでした。自分が力を持たされたことの意味を想像することはあっても、力そのものを客観的に見る努力は怠ってきたように思うんです。たぶん、目を逸らしたかったから」


「力の本質……ってのは、どうして天火が蒼いかとか、そういう話か?」


「ううん、もっと直接的な意味。あのベイベルの黒い天火には、無尽蔵の供給力がありましたよね? じゃあ私の持っている天火の、言ってみれば特殊能力って、何だと思います?」


 そんなことを言われても、とイスラは思った。天火の持ち主はカナンなのだから、彼女に分からないことが自分に分かるはずがない。


 咄嗟に思いつくのは、他の天火を圧倒する強大な出力だ。現にカナンの法術はベイベルの黒炎を幾層にもわたって貫通するし、発動すら困難な熾天使級法術さえも使いこなしている。それはやはり、もともと大きな力が無ければ出来ないことだ。


 しかしカナンが言っているのはそういうことではない。彼女は明らかに、自分の力というものを別の角度から見ようとしているようだった。


「天火のことは分からないけどさ」


「はい」


「お前って、やっぱり頭が良いよな」


「うん、そうですよ?」


「でも頑固だ」


「それも合ってます」


「あとあれだな、物の見方が俺たちと違う。一緒の部分もあるかもしれないけど、一つの視点に拘らない」


「そうありたいと思ってますから」


「意地悪な奴だな。とっくに答えが出てるんだろ?」


「答えというより仮説、ですけど……!」


 二人の問答はそこで途切れた。クリシャの「口を閉じて!」という切羽詰まった声が飛んできたからだ。そして騎手の向こう側に、セリオンの首の一つがゆっくりと動き出しているのが見えた。拘束をうけてなおそれを振り払った首は、ぱっくりと空けた口腔に膨大な熱量を収束させる。


 カナンは咄嗟に反撃を試みたが、それよりもクリシャの手綱捌きの方が素早かった。竜を大きく右下方へ滑降させ、射線から逃れる。直後、膨大な熱の奔流が上空を駆け抜けていった。


「流石にあれとは、撃ち比べはできませんね……!」


 冷や汗を拭いつつカナンは呟いた。すでにセリオンの他の首も動き始めている。拘束が完全に解けてしまうまで幾ばくもない。


「クリシャさん、突っ込んでください!」


「了解です!」


 クリシャの声に反応して、竜が翼を折りたたむ。「頭を下げて!」竜の背中に寝そべるような姿勢になりながら、クリシャは一気に急降下をかけた。同時にカナンは炎翼の一つを右腕に移動させて纏わせる。


「私の合図で急制動を掛けて……ッ!」


 だが、クリシャが指示通りに竜を止めようとした時、真正面からセリオンの巨大な首が地鳴りのような音と共に迫ってくるのが見えた。


「わっ、わっ!!」


 なんとか回避し得たのは、クリシャの技術というよりも竜の本能的な動作に因るだろう。翼端をかすらせながらも何とか直撃を回避するが、同時に襲い掛かってきた圧倒的な風圧が竜の胴体を木っ端のように翻弄する。


 追撃は終わらない。一つの首を回避しても、セリオンはあと六つもそれを残しているのだ。流石に至近距離なので砲撃は飛んでこないが、術式を破った首から次々と鎌首をもたげてくる。


「埒が明かないな」


 イスラがそう呟いた時、カナンは瞬間的に、彼が何かやらかすつもりであることを察した。


 だが、それを制止する間もなく、真正面から新たなセリオンの首が突っ込んできた。クリシャと竜は、頭部に築かれた王冠状の構造物を飛び越えて、その向こう側……セリオンの長い首の裏側にドタドタと着地した。


 彼女としては、そこで助走をつけさせてもう一度飛翔する腹積もりだったが、イスラは違った。


「ちょっと降りる」


「ハァ!?」


 カナンが後ろを振り返ると、すでにイスラは身を翻した後だった。「えっ、降りたんですか!?」クリシャも振り返るが、もう遅い。首筋を蹴って再度飛翔している。


 飛び降りたイスラは、そのままセリオンの鱗に覆われた首を転がりつつ、なんとか体勢を立て直した。とはいえ、足場は大きく動いているうえに、落ちた時の勢いも殺しきれていない。地面までは百ミトラ単位の高さがある。無論、落ちれば五体まとめて四散するだろう。


 しかしセリオンの方は、己の巨体に小さな生き物が張り付いたことなど気付いていない。イスラの存在に対しては完全に見落としていた。


「頼むぞ……!」


 うねる足場に合わせて、振り落とされないよう全力で駆け下りながら、イスラは左腕に装着した梟の爪ヤンシュフを発射した。一番近くの首に引っ掛け、手応えを感じると同時に飛び移る。そのまま両脚を着けはしない。衝撃で足の骨を折りかねない。だから、鋼線を巻き取りつつ首の表面を転がり、駆け下り、それを何度も繰り返しながら徐々に勢いを殺していく。


 もう大丈夫だ、と感じたところで、イスラは明星を抜き放った。溜め込んでいた天火を展開し、セリオンの首の一つに両腕で突き立てる。


 刀身が埋まったまま、五ミトラほど身体の位置が下がった。それ以上は食い込めないというところで、イスラは明星の中にため込んでいた天火を解放させた。


 剣を突き立てた箇所とは反対側から、蒼い炎が噴き出し、セリオンの残り六つの頭が苦悶の叫びを発する。爆破され、脆くなった首は自重を支えきれず呆気なく崩落した。


 そして、その混乱を予期してセリオンの真上を取ったカナンが、腕にまとわせた炎翼の一つを弾丸に変えて発射する。あたかも流星を落としたかのような一撃が巨獣の首の根本に直撃し、衝撃波と共に大きな穴を穿つ。


「……ありがとうございました、クリシャさん」


 戦果を見下ろしながら、カナンは目の前のクリシャの背中に謝意を述べた。クリシャは呵々と笑いながら「何の何の」と片手を振った。


「ようやく、世界を変えようとする方と共に戦うことが出来ました。三年前、エマヌエル様が亡くなられた時は叶わなかったことを……感謝しております、カナン様」


 カナンはこくりと頷いた。そして「行ってきます」の一言と共に飛び降りた。


 空中で炎の翼を広げ、シオンの術式を励起させる。銀色の枠が見えたと思った時には、彼女は自分の穿った破砕孔に降り立っていた。


 カナンは目を見開いた。そこには驚くべき光景が広がっていた。


「似てるな、大坑窟に」


 滑り降りてきたイスラが、さも何事も無かったかのようにカナンの横に立った。カナンは、流石に半眼になりつつ、彼の頭を杖で小突いた。


 だが、イスラの言う通り、セリオンの体内はかつて通過した大坑窟を思わせる形状だった。無論完全に建築物然としているわけではなく、壁には太い血管や神経らしきものが張り巡らされている。不気味な発光体が無造作に散らばっては、まるで訪れる者を誘うかの如く明滅していた。


「……イスラ。結局、私はやるべきことを一つ残したままだったようです」


「それを拾いに行くってか。難儀な話だな」


「ええ」


「じゃ、行くか」


「はい」


 二人は発光体の明かりに導かれるまま、セリオンの内部へと歩を進めた。その退路を断つかの如く、穿たれていた箇所が自己修復をはじめ、間もなく何事も無かったかのように完全に出入口を封鎖した。

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