戦線を後方から前方へと駆け抜け、妨害してくる夜魔を斬り払いながら、ついにイスラとカナンは最前線へと辿り着いた。
アブネルに率いられた闇渡りの精鋭たちは依然として奮闘していたが、その戦いについてこられない者は容赦なく夜魔の波に呑まれ溺れていく。
「あいつら、無茶し過ぎだ……!」
「状況を仕切り直します。二十秒、いえ、十秒稼いで貰えますか?」
「分かった」
カナンを襲おうとしたアルマロスを斬り捨てつつ、イスラは両脚に力を込めて一気に加速をかけた。闇渡りたちを追い抜き、全軍の先頭に躍り出る。「貴様!?」彼の参戦に驚いたアブネルを後目に、
金色の剣から蒼い炎が噴き出し、蒼閃の刃へと瞬く間に収斂する。三ミトラ近く伸びた光刃で夜魔の群れを幾度も薙ぎ払う。
「無事ですか、アブネルさん!」
「カナン様!?」
何事も無かったかのように飛び込んできたカナンにまたしてもアブネルは驚かされた。彼はカナンが負傷した場面を目撃している。他の面々も同様だった。出血量にせよ傷を負った箇所にせよ、場数を踏んだ者ほど致命傷と分かるものだった。それ故、カナンがすでに死んだか、遠からず死ぬだろうと思っていた者もいたほどである。
カナンは今までに幾度となく奇跡をもたらしてきた。彼女のような継火手がいること自体、一つの奇跡だった。精鋭の闇渡りは最も危険な戦地へ送られるが、カナンはさも当然のように同じ戦場を共有する。だからこそ、誰よりも間近でその奇跡を目撃することになるのだ。
(あの、蒼い翼)
名無しヶ丘の死地で目の当たりにしたものとは異なるが、蒼い炎の翼を生やしたカナンの姿は、かつての奇跡の記憶を思い起こさせずにはいられない。
「マーシアハ……」
かつて自分たちを救ってくれた奇跡の担い手をそう表現してしまうのは、彼ら闇渡りも一介の人間である以上、無理からぬことだった。あたかも神の御使いかと思えてしまうほどに、カナンの存在は浮世離れしたものとなりつつあった。
当の本人は無我夢中である。自分に向けて生じつつある信仰のことなど気付きもしなかった。
「今から敵を押し返します、その隙に後退してください!」
「押し返す!?」
出来るものか、とアブネルは思った。だが、同時に出来るかもしれないとどこかで得心していた。
剣舞を続けるイスラの後ろで、カナンは背中に生やした六枚の翼を大きく展開させた。
「シオン、私に力を貸してください……!」
翼が無数の枝状に分岐し、その先端部に蛍火を思わせる小さな光が灯る。よく見ると、蒼い火の中、わずかに銀色の粒子のようなものを発しているそれを、羽ばたくことによって一斉に夜魔の軍勢の中へと送り込む。
「蒼炎よ!」
カナンが杖を高く掲げると、背中にあった炎の翼がその周囲を取り囲むように移動した。そして翼の先端と先端との間に銀色の線が引かれ、複雑怪奇な魔法陣が描かれる。蒼と銀とが入り混じり、稲妻のように激しく明滅する中に、杖から放たれた蒼い閃光が飛び込んだ。
夜空を切り裂くかと思われたその閃光は、しかし魔法陣に遮られ転送され、あらかじめ放たれていた蛍火の元へと送り込まれる。
次の瞬間、ペヌエル平原の一角を無数の蒼い直線が切り取り、その線上にいた夜魔を貫いた。
おどろおどろしい音と共に侵攻していた敵が大地に倒れ伏し、それまでの苛烈な攻勢が嘘であったかのように停滞する。全ての敵を倒せたわけではないが、救征軍に圧し掛かっていた圧力が減衰したのは確かだ。
出来た、とカナンは思わず杖を握った手に力を込めていた。シオンの天火が自分の中に宿っているならば、彼女の使った転移術も応用可能と踏んだのだ。広範囲にばらまいた中継点に、「正門」へと送り込んだ光線を転送。分裂して発射させることによって、軸線上の敵を掃討する。一見すると大量に天火を消耗しているように見えるが、実質的には「
無論、拡散させた分だけ、一発当たりの威力は低下している。小型の個体ならばいざ知らず、ネフィリムほどの大きさになると一撃で致命傷とはいかない。
しかし、この場合はむしろ、大型の個体を擱座させたことが有利に働いていた。脚を砕かれ崩れ落ちたネフィリムたちは周囲を巻き込み、また後続を阻む障害と化したのだ。
「アブネルさん、今のうちに後退を!」
言われるまでも無く、軍を下げる好機だ。しかしアブネルは吼えた。
「貴女はどうされるおつもりか!」
「あそこに向かいます」
カナンはセリオンの方に杖を向けた。到底、常軌を逸した発言に思えた。
「出来るわけがない。どれほどの数の敵がいるとお思いか」
「それは分かってます。でも……」
「やるしかない。とことん、出来るところまでな」
アブネルは大きく溜息をついた。この二人は本当にやるつもりだ。当然、当人たちもその無茶苦茶ぶりを自覚しているだろうが、彼らの中にはもう、諦念の二文字は残っていない。
「だとしても、これでは犬死です」
すでに倒れた敵の向こう側では、新たな敵が溢れかえって、より大きな波濤となって進撃を始めている。イスラとカナンにどれほどの力があろうと、人間である以上、必ずどこかで終わりを迎える。敗北は必然だ。それが分かっているのに彼らを送り出すのは、アブネルの矜持が許さなかった。
「その通りですよ、カナン様!」
頭上から威勢と活気にあふれた声が降り注いだ。
見上げた彼らの顔に、
「クリシャさん、無事だったんですね!」
首の周りに長い銀髪を巻き付けたクリシャは、汗と灰で汚れた顔を破顔させた。
「遅参、御容赦ください。いかんせん途中で厄介な連中に絡まれまして、少々てこずりました。
……ところで、どうやらおあつらえ向きの仕事があるようですね?」
クリシャはあくまで明るい表情を崩していないが、そこに隠しようのない疲労が滲んでいることは誰の目にも明らかだった。潜り抜けてきた試練も「少々」などという言葉では到底片付けられないものだっただろう。相棒の竜も全身に傷を負っており、まさに満身創痍と表現出来そうな有様だ。竜の乗り手であるクリシャが気付いていないはずがない。
だが、クリシャが今、何を望んでいるかもまた、自明のことだった。操蛇族の長でもあるこの継火手は、なおも戦場での槍働きを希望していた。
「……それじゃあ、一つお願いをしても良いですか?」
「何なりと」
「私とイスラを、あの獣の真上まで運んでください」
「真上まで、で良いのですね?」
「はい」
「了解致しました、お安い御用です!」
クリシャは竜を伏せさせ、カナンの手を取って背中へと引っ張り上げた。「イスラ!」カナンが呼ぶと同時に、グレゴリを斬り倒したイスラが軽やかに竜へと飛び乗った。
竜が翼を大きくはためかせる。夜魔の残骸である灰が風と共に巻き上げられた。その場に立っていたアブネルは声を張り上げた。
「若造、いや……闇渡りのイスラ!
貴様は必ず、カナン様よりも先に死ね!!」
カナンはくくっ、と喉を鳴らした。どこまでも不器用な男だと思った。素直に「ちゃんと守れ」と言えば良いものを、ああいう物言いしか出来ないのである。
そんなアブネルに向かって、イスラも真上から言い返した。
「誰が死ぬかよ! 二人揃って戻るさ!!」
「そうです! だから、皆も……!」
カナンの最後の言葉は、竜の羽ばたきと夜魔の轟音によってかき消されてしまった。三人の乗った竜は遥か上空まで登り、一直線にセリオンへと向かっていった。
だが、明瞭に聞こえずとも、彼女が何を言おうとしたかは分かる。彼女に助けられた全ての闇渡りが理解していた。
「別に生き延びたいと思っちゃいねぇが……やっぱ助けてもらうと嬉しいもんだな」
誰かがぽつりと呟くと、生き残った連中の間から同意するかのように笑い声が広がっていった。
「こんな俺たちにまで、やれ生き延びろだの諦めるなだの。長生きってのはしてみるもんだな。なあ、アブネル?」
「全くだ」
これ以上の奇跡はいらない、とアブネルは思った。
もう今までに、一人の人間が預かるにはあまりに多すぎる奇跡を受け取った。この上さらに何かがあるとは思えないし、もし何かが待ち受けているとしても、それがどんなものか少しも想像出来なかった。
「ここが俺の、たどり着くべき場所だったのかもしれん」
人知れずアブネルは呟いていた。もうここが終点で良いと思った。
なればこそ、全身全霊を賭して戦おう。どんな形で死が迎えに来るとしても、恥や悔いを残さない姿で受け容れよう。
「野郎ども、一旦下がるぞ! 本隊に合流する!」