救征軍主力は努力の限りを尽くして敵を押し留めていたが、決壊は文字通り目前まで迫っていた。
城壁も無ければ継火手もおらず、殺到する敵は時が経つほどに指数関数的に増えていく。休憩させていた操蛇族と
それは前衛を任されたアブネルにしても同じだった。最早突撃をするだけの余裕は無い。三十人いた最精鋭も一人また一人と斃れ、残すは半数の十五名のみである。闇渡りたちの指揮を任されていたサイモンにしても、当人が剣を抜いて戦わなければならない状況で、最早統制を維持することなど不可能な有様だった。
戦線の各所に穴が開き、侵入した夜魔たちによって各部隊が寸断、孤立させられていく。遠目にも全滅の明らかな隊が目立ち始めていた。
「全軍を五十ミトラ後退させよ! このままでは突破されるぞ!」
伝令兵に向かって怒鳴るように命令を飛ばすが、ゴドフロアは内心、その実行困難さを自覚していた。今でさえ押されているというのに、戦いながら隊伍を組んで後退するなど無理難題であろう。最悪、このまま戦線崩壊を迎える恐れさえある。
しかし少しでも戦力を集中させなければ、各個に分断されて消滅するのみだ。それに後方で怯えている難民たちのことを考慮すれば、全員討ち死にするとしても、少しでも長く持ちこたえて、じっくりと磨り潰されなければならないだろう。
(カナン様さえおられれば……)
考えても詮無いこととは言え、そう思わずにはいられなかった。
そんな彼の耳に、護衛兵の悲鳴のような警告が飛び込んできた。見ると、戦線の一角を貫いた夜魔の一団が、真っすぐ彼らの元に向かってきている。「……」ゴドフロアは剣を抜いた。長年慣れ親しんだ、刀身が鞘の中を滑る音に安堵を覚えつつも、同時に敗北を悟らざるを得なかった。総大将が剣を抜いて戦う時というのは、敗北が決定づけられた時と相場が決まっている。
かくなる上は少しでも多くの敵を斬り伏せ、しぶとく食らいつく他無い。
だが、老騎士の悲壮な決意が果たされることは無かった。
蒼い閃光が迸り、今まさに干戈を交えようとしていた夜魔たちが灰となって吹き飛ばされた。
「遅くなりました、ロタール卿!!」
その清廉な声が響き渡っただけで、先ほどの光芒よりもなお眩しい光が射しこんだかのようだった。
戦場に滑り込んできたカナンは、蒼い翼を生やしたままゴドフロアの手を取った。重傷を負ったと聞かされていたが、彼女の手は、老騎士の皺だらけの手を再び奮い立たせるほどに熱かった。
「カナン様、よくぞ……!」
感極まったゴドフロアの眦に、意図せず涙が染み出た。感傷を噛み殺しつつ「どうなさいますか」と指示を求める。
「全軍を後退させてください。一人でも多く生き延びられるように」
「この事態を打破する策があると?」
「あります」
カナンははっきりと言ってのけたが、それがか細い道であることは表情が物語っていた。当然だ。これほどの大災害が簡単に解決出来るはずがない。せめて何か少しでも手伝いたいところだが、それも無理なのだろう。
出来ることと言えば、彼女が言った通り、一人でも多くの人間を生き延びさせること。そのために軍を退かせることだ。
「……承知致しました。ですが、すでに全軍は各所で寸断されつつあります。このまま後退すれば、
「アブネルさんはどこですか?」
「最前線にて指揮を」
「そこへ向かいます。ともかく、この近くにいる部隊だけでも集めてください。アブネルさんたちが後退する余裕は、私とイスラで作って見せます!」
そう言うや否やカナンは踵を返し、残存した夜魔を斬り伏せているイスラと合流して駆けて行ってしまった。
ゴドフロアには、ただ見送ることしか出来なかった。彼は抜いたままだった剣を顔の前で構え、祈るように「御武運を」と呟いた。
◇◇◇
「集まれ集まれ! バラバラだとすぐにやられちまうぞ!!」
岩堀族の作ったゴーレムの肩に乗り、サイモンは救征軍の旗を振りつつ声を張り上げた。彼の周囲には大坑窟以来の仲間たちが集い、前線の中にあっても比較的堅固な陣形を築いている。本来の部隊長であるアブネルがさらに前方で戦っている以上、副長格であるサイモンは余計に意識して身を護らねばならなかった。
ゴドフロアやアブネルに命令されるまでもなく、サイモンは部隊の集結を進めていた。少し高い足場から眺めてみると、現在の状況がいかに絶望的であるか良く分かった。
ふと子供の頃に聞いた、世界を覆うほどの大洪水の物語を思い出した。良い人間だけが巨船に乗り込み、悪い人間は一人残らず大雨と大波に呑まれてしまったという筋書きだ。
『だから悪いことばかりしていると、神様がバチを下されるんだよ。良い人間なら生かしてもらえるけど、悪い人間は船から閉め出されてしまうのさ』
(誰が言い出したんだよ、あんな与太話)
大人になって振り返ってみると、とんでもなく理不尽な物語だと思う。子供だった当時でさえ、自分の中に悪事の心当たりを得て、後ろめたさを覚えたものだ。しかし大人になると分かるが、この世に悪事を働かない人間などいない。程度の差こそあれ、誰もその大きな船に乗る資格など持ちえないだろう。
それこそ、オルファという恋人がいながら、闇渡りの娼婦と関係を持ったりした自分などは、降りしきる雨の中で為す術無く岩に張り付くしかないのではないか。
(つーか、まさか浮気したからこんなハメになってる、なんてこたぁ無いよな?)
岩石で作られたゴーレムの頭を軽く蹴りつつ、サイモンは目の前で轟く夜魔の津波を見やった。雨で水の嵩が上がって溺れ死ぬのも御免だが、夜魔の爪に引き裂かれるのも御免被りたい。
「……あの話、最後どうなったんだっけ」
悪人が皆滅んだとして、いつまでも水が引かなければ船の中の善人たちも干乾びてしまう。結局、雨が止んで善人たちの新天地が現れるというオチのはずだが、その前にもう一つ別の挿話があったはずだ。
何で呑気にこんなことを、と思わないでもない。
(でも、そうだ……そうだった。あの時、隣にオルファがいたんだっけか。ブルブル震えて、泣きそうになって。気が強い癖に怖がりで)
「……俺が死んだら、やっぱ泣いてくれるかな」
サイモン! と仲間の叫ぶ声が聞こえた。ハッと我に返った時、操蛇族との混戦を抜けてきた一体のティアマトが急降下してくるのが見えた。誰を狙って、などと思ったりはしなかった。当然、一番目立つ位置にいる者を狙うに決まっている。
味方が上空に向けて矢を射掛けているが、そんな迎撃など物ともせずに邪竜は滑り降りてくる。
「オ……」
「女の名前を言うのはやめとけ」
耳元で聞きなれた声が響いたと思った次の瞬間には、跳躍した影がティアマトの身体を真っ二つに両断していた。
「荒武者のギンガム曰く、戦場で女の名前を唱えるなかれ。其れ瀕死の兵士の女房恋人に甘えるが如くなり……だそうだ」
「……お前の
降ってきた灰を拭うイスラを見ていると、サイモンは思わず顔を綻ばせてしまった。
「遅れて悪かった。ゴドフロアの爺さんから後退命令が出てる」
「この状況で下がれってか!?」
「俺とカナンでどうにかする。だからお前らは……絶対に死ぬなよ」
どうにかって何だよ、と思わずにはいられなかった。
だがイスラのいつもと変わらない、否、いつも以上に落ち着いた表情を見ていると、本当にどうにかなるかもしれないと何の根拠も無く思えてしまった。
何より、「絶対に死ぬな」と言った時、イスラの金色の瞳の中に一瞬だけよぎった切実な光を思い起こすと、到底疑う気にはなれなかった。
「……そうだ、思い出した」
イスラが首を傾げる。サイモンは忍び笑いを漏らしつつ「独り言だよ」と言った。
「了解した。戦況を見て俺たちは下がる。お前も死ぬなよ、イスラ」
「ああ」
翻った黒い外套を見送りながら、サイモンは昔話の内容を思い返していた。大海原を漂う善人たちは、人間が上陸出来る陸地があるか探すために、二羽の鳥を放つのだ。一度目は鴉、二度目は鳩。
「鴉は船に帰ってきて、善人たちをがっかりさせた……けど、俺はお前らが帰ってくるのを待ってるからな」